[職場環境の改善運動と労働組合]

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【国鉄浜松工機部 待遇改善委員会 浜松工機部従事員労働組合】
 労働運動高揚の背景には、戦前の過酷な弾圧の中での労働運動を経験した活動家が残っていたこと、戦前の従業員団体である産業報国会での組織的な運動をしていた人もいたこと、当時の勤労者の生活が困窮を極めていたことなどが考えられよう。なかでも、産業報国会では工員(ブルーカラー)だけでなく、職員(ホワイトカラー)も構成員であったため、両者の間の差別感が希薄になっていたことも、各企業での労働組合立ち上げに際して力となっていた。同時にこれは企業の経営方針をくんだ労働運動の展開につながっていった。
 国鉄浜松工機部の労働組合結成時の様子を『浜工労働運動史』から見てみよう。昭和二十年十月、国鉄当局は戦時中の国有鉄道奉公会を廃止し、「上下ノ意思疎通ヲ行ヒ鉄道現業職員ノ生活安定福利向上及能率増進ヲ図ル」を目的とする鉄道委員会の創立に乗り出していた。これに対し浜松工機部の従業員たちは工場幹部の不正追求や職場の待遇改善を目指して待遇改善委員会を作った。国鉄当局は同年十月三十日に職場代表の二十五人と弁天島の八紘荘で懇談会を持ったが、この二十五人の中には待遇改善委員会のメンバーが入っており、物資部の明朗化、食糧確保日の設定、賃金の不均衡是正、戦災設備の復旧、便所の増設などの要求が出された。この懇談会の後、待遇改善委員会は組合結成に向けて準備を進める一方、工機部長に対して、「勤務時間ヲ一日八時間トセヨ」「収入ヲ現収入ノ五倍トセヨ」「主食ヲ一日四合トセヨ」「通勤手当ヲ支給セヨ」などの要求書を提出した。その後、これらの要求を実現させる運動をしていた改善委員会の委員は、これからつくられる鉄道委員会は当局の御用組合になることを察知して、鉄道委員会の委員の選挙に立候補し、内部からこれを崩そうと画策したのであった。浜松工機部の鉄道委員は名古屋や松任の各工機部の委員と連絡を取り、鉄道委員会を解散させることを申し合わせ、二十一年一月十三日に名古屋鉄道局管内第八区の鉄道委員会の席上で解散を決議したのであった。決議文には「…従業員自ラガ結成シタル民主的労働組合ノ強靭ナル団結力」などと記され、労働組合によって待遇改善を図る方向に向かった。こうして先述のように二十一年一月十六日に浜松工機部従事員労働組合が正式に発足したのであった。