[メーデーの復活と争議の激化]

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【メーデー 日本楽器聯合労働組合 労働協約 経営協議会 富士産業 ABC事件 三協機械製作所 鈴木式織機 国鉄労組 二・一ゼネスト 吉田内閣打倒危機突破大会】
 昭和二十一年五月一日は十一年ぶりに復活した戦後最初のメーデーであり、戦前から数えて十七回目であった。浜松では土砂降りの雨の中、浜松工機部や日本楽器の従業員など三十四団体の労組員七千余名が五社神社境内に参集、大会を開きスローガンを採択した後、浜松駅前までデモ行進を行った。浜松工機部はこの日勤務日であったが、当局との交渉で出勤扱いとなり、工機部で勢ぞろいし、会場の五社神社までブラスバンドを先頭に行進、ほぼ全員参加であったという(『浜工労働運動史』)。また、日楽労組員の参加率は土砂降りの雨の中でも八十六%の高率を示した(日楽労組『組合のあゆみ』)。戦後第一回のメーデーのスローガンは「台所に直結する政治を行へ」「馘首絶対反対」「八時間労働制の徹底」「失業者に職を与へよ」「男女同権」「女子に生理休暇を」「働けるだけ食はせろ」「戦災復員引揚者を救へ」といったもののほかに、「生産即時再開」「生産を増強して国家経済再建」「労資協調による生産強行と労働者の向上」「産業の復興は我等の団結で」などのスローガンも見え、政府や資本家を批判するだけでなく、自らの手で国家経済を再建していこうという意欲がみられるものであった。

図2-54 浜松での戦後初のメーデー

 浜松の大手企業の日本楽器製造株式会社の本社に労働組合が誕生したのは昭和二十一年二月のことであった。この組合はほかの工場や東京・大阪など地区別に結成されてきた労組を連合組織に変え、同年四月に日本楽器聯合労働組合を結成した。この労組には結成当初から「我等ハ日本人タルノ本分ヲ自覚シ生産ヲ向上シ以テ新日本建設ニ挺身センコトヲ期ス」「我等ハ鞏固ナル団結ニヨリ労働条件ノ改善ヲ計リ…」「我等ハ社会正義ニ立脚シ自主的組織ヲ以テ自己ノ使命卜責任ノ完遂ヲ期ス」という文言が綱領にあり、比較的穏健な労働運動を目指していた。組合は会社側との交渉の結果、同年十月に最初の労働協約を結び、翌月に会社と労組の双方が参加する経営協議会を発足させて、交渉によって労働者の待遇改善を進める運動を行った。昭和二十二年十一月に聯合労組は日本楽器労働組合という単一労組となるが、その時の執行委員長の考えが『新編史料編五』 七社会 史料71に出ている。二十三年十月、経営協議会で経営不振を打開するため社長から大規模な人員整理問題を提起された。組合の執行部は内部のストライキ強硬派を抑え、経営協議会での解決を貫き、労使協議の上本社工場四百七十九人、天竜工場六十七人の解雇を認めた。二十四年二月十六日のことであった。同日執行部は辞意を表明した。
 なお、当時の経営協議会では人事・給与・福利厚生・生産等、あらゆる問題が協議されていたが、昭和二十五年五月に締結された新労働協約では人事と生産に関しては経営権に属する事柄とされ、労働権は一定の枠に制限された。詳細は第五節産業 第三項を参照されたい。
 このようななか、富士産業でも同様な人員整理が行われた。富士産業の戦前の社名は中島飛行機で、浜松でも航空機用のエンジンなどを生産、多くの従業員を擁していた。昭和二十年九月に社名を富士産業株式会社とし、手持ちの資材を加工して鍬や鋤などの農具や生活用品を作ることになった。そしてミシンの製造に乗り出そうとした時、工場のほとんどの機械が賠償指定となり、思うように使用できなくなった。そして前述のように人員整理となったが、その人員整理の方式が後にABC事件と呼ばれることになった。これは全従業員の勤務成績をランク付けし、成績の良い者はAとして、浜松工場で継続して雇用、続いてBは新居工場へ転勤とし、成績の芳しくないものはCとして解雇するというものであった。このやり方は従業員の間で大きな反発を浴び、ランク付けをした会社と一部の労組幹部に対抗して二十一年八月には新組合が結成されることになった。富士産業浜松工場でのミシン(リズムミシン)製造は、同年の十二月以後生産は大きく伸びていくが、この組合は争議をたびたび起こすことになる。
 この争議が火付け役となって浜松地区では数多くの労働争議が起きた。昭和二十一年には浜松鉄道の遠州鉄道への合併に伴う争議、二十二年には全逓信従業員組合の浜松郵便局や浜松電話局、鈴木式織機、二十三年には浜松東宝劇場、二十四年には浜松楽器、日本度量衡、三協機械製作所、そして二十五年には河合楽器製作所、小倉製鋼、東京無線、鈴木式織機などで争議が起き、工場閉鎖やストライキなどが行われた。このうち特に激しかったものとして二十四年四月から九月まで約半年にわたった野口町の三協機械製作所の争議(人員整理反対など)、二十四年から二十五年にかけての鈴木式織機の争議(賃下げ反対、人員整理反対など)があった。この背景にはドッジラインによる深刻な不況があった。先の争議のうち、金属工業分野では共産党が支配下に置いていた産別会議系の全日本機器の影響の強い組合で尖鋭的労働運動が展開されていた。三協機械製作所と鈴木式織機も組合は全日本機器に所属し、戦闘的な傾向を持っていたが、外部勢力の支配、政治闘争化、あまりに激しい闘争などに反発し、平和的な手段で争議を解決しようとする労働者が出てくるようになった。彼らはいわゆる第二組合や従業員の有志協議会を結成し、次第に勢力を拡大し、静岡県地方労働委員会の調停案や斡旋案を受諾して解決するといった方向に向かっていった。この後、これまでの組合(第一組合)も斡旋案を受諾し争議を終えている。この県地労委の活動は多くの労働争議を解決に導いたが、これらの詳細は『静岡県地方労働委員会五年誌』に詳しく出ている。
 昭和二十一年七月、国鉄当局は七万五千名に上る人員整理を発表したが、これに対し国鉄労組は九月に解雇反対の一大闘争に入り、五十日にわたる闘いによりこれを撤回させることとなった。この解雇撤回闘争の勝利により、労働運動は一段と高揚し、官公庁で働く公務員労働者の生活確保要求の闘争は吉田内閣の打倒を目指す二十二年二月一日の二・一ゼネストに向けた政治闘争に発展していった。公務員労働者の闘争に火を付けたのは、実は民間企業の労働者の賃金向上のための闘争であった。二十一年、各地で民間企業の労働者は賃金引き上げのためのストライキを起こし、賃上げを次々に勝ち取っていった。その結果、国鉄、郵便局、教員などの公務員の賃金は民間の約四十五%ほどに過ぎなくなっていた。そこで彼らは同年十一月に全官公庁共同闘争委員会を作って賃上げ闘争を開始した。この動きに民間企業の組合や社会党・共産党も加わり、吉田内閣打倒の動きも見せ始め、全国各地でゼネスト気分を盛り上げていった。十二月二日には浜松二中の講堂で西部地区官公衙共闘主催の士気高揚大会が開催され、二十二年一月には同共闘は自転車隊・メガホン隊などによって浜松市内外で宣伝活動を行った。また、一月二十八日には全国各地で吉田内閣打倒危機突破大会が開催され、浜松市でも社共両党主催で開催された。五社神社広場には一万人が集まり、勤労大衆は餓死せんとする状況にあり、インフレの昂進で国家の滅亡は眼前にあるにもかかわらず政府は時局の担当能力がないとして即刻退陣を要求する決議を採択した。そして、「人民政府を樹立せよ」などのプラカードを掲げて市内をデモ行進した。二月一日が迫るにつれて各労働組合はゼネストへの態度を表明し始めたが、対応は大きく分かれた。交通関係では国鉄や静岡鉄道はスト参加を決めたのに反し、遠州鉄道は不参加を表明した。静岡市役所職員組合は参加を決めたが、浜松市役所職員組合は一月二十八日に組合が結成されたばかりであるとし、一月三十一日になって不参加を表明した。教員組合では国民学校の教員が加わっている浜松市教職員組合は不参加、中等学校の多くと、すべての青年学校は不参加と決まったが、二月一日を前に情勢は微妙に変わっていった。国鉄・全逓などは最後まで強硬な姿勢を見せた。
 結局、一月三十一日にGHQ最高司令官マッカーサーは中止命令を出し、これが午後二時半に全国放送された。そして、同日午後九時過ぎ、全官公庁共同闘争委員会の伊井議長がゼネストを中止する旨の放送を行った。二・一ストは中止となったが、この後、官公労働者の労働条件は改善され、公務員の給料はこれまでの約二倍の千二百円程度になった。また、運動の高揚を背景に四月の総選挙では日本社会党が第一党となり、片山内閣の誕生につながった。労働組合戦線は三月に全国労働組合連絡協議会が結成された。一方で、これまで労働組合運動を指導してきた産別会議は衰退への転機ともなった。