[労働運動の分裂とレッドパージ]

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【遠州経営者協会 遠州地方産業復興協議会 国鉄労組静岡支部民主化同盟 レッドパージ 静岡県労働組合評議会 遠州地方共闘会議】
 昭和二十二年二月、遠州地方の経営者が集まり、労組側の遠州地方労働組合会議(遠労)に対抗して遠州経営者協議会(後の遠州経営者協会)を結成した。同年四月、経営者側と労働者側の各代表が産業の復興について協議する遠州地方産業復興協議会が結成され、労資協調の場が設けられた(『新編史料編五』 七社会 史料70)。しかし、復興協議会が結成された時期は二・一スト挫折直後であり、協議会は労資対立の場ともなりがちで、機能停止の状態に陥っていた。
 昭和二十三年二月、静岡県地方労働委員会の労働者側委員の選出をめぐって総同盟県連が静岡県労働会議から脱退し、県下の労働運動は分裂するに至った。さらに、国鉄労組の中では共産党の影響力の徹底的な排除を目指す国鉄労組静岡支部民主化同盟の結成式が二十三年四月に浜松市議事堂で行われた。同年七月、芦田首相あてのマッカーサー書簡と、それに沿って出された政令二○一号は、戦後の労働運動を牽引してきた官公労働者(国家公務員、地方公務員)から団体交渉権と争議権を奪う内容であった。この政令が施行される五カ月ほど前に起こった専売局浜松工場での「〝たばこスト〟始まる」(『新編史料編五』 七社会 史料72)のような争議は出来なくなった。浜松市役所職員組合は二十二年八月に労働協約書(第一条は団体交渉権の認可)を浜松市長と取り交わしていたが、この政令により労働者の権利を保証している労働協約書は一方的に破棄されることになった。民主化同盟の勢力が増していく中、二十三年八月、国鉄労組静岡地方本部浜松工場支部では臨時大会を開き、「マ書簡を肯定して政令の範囲内で最大の労働運動を行う」方針を可決した。
 昭和二十四年四月、インフレ克服、経済自立化のためのドッジラインが強行された。この年の予算は超均衡予算となり、官公庁では人員整理が相次いだ。また、政府の予算削減で産業界は大幅な受注減となり、不況が進行し、多くの企業でも大量の人員整理が行われた。人員整理の対象者には共産党系、産別系の組合活動家が含まれ、彼らを職場からパージ(追放)することが強行された。二十四年五月に国鉄職員のおよそ六人に一人を解雇するといった厳しい定員法が野党の反対にもかかわらず可決され、国鉄浜松工機部では七月に当時の従業員の十三・七%に当たる五百六十七名が解雇された。共産党員やその同調者と見られた人々を職場から追放(レッドパージ)する動きは昭和二十五年六月の朝鮮戦争開戦前後に、より公然と行われ、県内では教員六十七名が解雇された。また、国鉄浜松工場や遠州織機、富士精密工業(旧富士産業)浜松工場などでレッドパージが行われた。このうち、二十五年十一月には富士精密工業浜松工場に米軍将校が乗り込んで来て、労働者に「お前は共産党員か」と直接尋問し、その場で十七名の解雇を言い渡したという(『〝からっ風〟に生きる』―遠州の女性たちの平和と自立への歩み―)。レッドパージによって解雇された者は不当解雇として地労委に提訴したものの、処分が撤回されることはなかった。当時はこれらを人権問題と見ていなかったことがうかがわれる。
 中央で民主化勢力が昭和二十五年七月に日本労働組合総評議会(総評)を結成すると、県下でもその下部組織である静岡県労働組合評議会(県評)が翌年の十一月に発足した。中央レベルでは総同盟は左派は加盟、右派は加盟せずと分裂したが、県の総同盟は県評に加盟することになった。これに先立つ昭和二十五年二月、これまで遠州地方の労働運動を指導してきた遠州地方労働組合会議(遠労会議)が解散し、四月に遠州地方共闘会議が結成され、議長には浜松工機部の渡辺忠雄が選ばれた。