[様々な職場への女性の進出]

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【婦人警官 林ひで 保健婦 柏木はつゑ 加藤やす 生活改良普及員 女性主事 女子車掌 女子行員】
 戦争中に広がった多くの職域への女性の進出は昭和二十年代前半になっても後退することはなかった。GHQによる民主化政策で男女同権がうたわれたが、新しい分野への女性の登場で話題を呼んだのが婦人警官であった。二十一年三月に日本で最初の婦人警官が警視庁に採用されている。浜松市警察署では二十三年四月に四名の婦人警官が採用され、少年補導などの仕事に就いた。政治の分野では昭和二十一年四月の総選挙(全県一区)に立候補した山崎道子(後の藤原道子)は最高点で当選し、婦人議員第一号(全国では三十九名)となった。翌年の五月に行われた戦後初の浜松市議会議員選挙では浜松市婦人連盟常任理事の林ひでが立候補、見事当選し県下初の女性市議会議員となった。同時に行われた町村議会議員選挙では浜名郡(村櫛村・中ノ町村など)で六名、引佐郡で四名の女性町村議会議員が誕生し、政治と台所をつなぐ役目などを果たしていった。
 三方原台地の戦後開拓事業では、昭和二十二年度に静岡県開拓協会から嘱託職員として保健婦が派遣された(『静岡県戦後開拓史』)。三方原開拓では柏木はつゑ、浜松開拓では加藤やすがその任に当たった。二人はそれぞれの任地で開拓民や若い婦人の健康管理を一手に引き受けていた。開拓婦人の相談訪問は農作業を終えた夜がほとんどで、健康診断、家族計画などその仕事は多岐にわたっていた。また、出産時には助産婦としても活躍した。浜松開拓では開拓民のほとんどの子どもたちが加藤の手で産声を上げたという(わが町文化誌『しいの森 はぎの原』)。開拓民が開拓に追われて過労と栄養失調が目立ち始めた昭和二十五年ごろ、タンパク質補給の手だてとして養鶏、養兎、山羊の飼育を保健婦が先頭に立って指導すると、営農指導員と対立する場面もあったという(『静岡県戦後開拓史』)。なお、加藤は二十七年には民生委員となり、社会福祉向上のために力を注いだ。
 昭和二十五年八月、農林省の指導の下、静岡県は農村の非能率で健康への配慮がなされていない台所や食生活の改善を目指して生活改良普及員の女性を浜松地区に配置した(『新編史料編五』 七社会 史料37)。この生活改良普及員の熱心な指導により部落ごとに生活改善婦人部が誕生し、料理の講習、講話、台所の見学などを行っていた。これらの生活改善運動は各町の婦人会でも積極的に受け入れ、主な活動に取り入れるようになった。
 行政の分野では能力のある女性を積極的に登用し始めた。昭和二十五年十二月には静岡県西遠地方事務所厚生課勤務の黒川真美子が県地方事務所で最初の女性主事(社会福祉主事)となっている(『静岡新聞』昭和二十五年十二月二十九日付)。
 戦前からバスには女性車掌が乗車していたが、戦後もバス路線が再開されると女子車掌も復活し、昭和二十六年には女子車掌用の制帽が制定された(『遠州鉄道40年史』)。また、百貨店や電話局でも戦前から女性が勤務していたが、ここでも戦後多くの女性が活躍するようになった。金融機関では戦前は男性行員が多かったが、戦時中に兵役や徴用で男子行員が少なくなると女子行員が代行することになった。その結果、窓口業務や事務職は女性に適した職場であることが分かり、戦後も女子行員が大勢勤務することになった。
 なお、戦争未亡人による積極的な自立を目指した運動については第三項を参照されたい。