[浜松工機部の婦人部と家族補助組合]

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【家族組合 労組補助組合】
 昭和二十一年六月時点で国鉄全体では五十五万人ほどの従業員が働いていた。その約一割が女子で、ほとんどは戦争中から勤務していた。浜松工機部では労働組合員数三千三百二十七名のうち、女子は二百四十五名を数えていた。組合内の下部組織として女子部が誕生したが、二十一年七月に青年部の中に婦人部を設けた。しばらく後に婦人部として独立し、自主的な組合活動もするようになった。このころ、国鉄では大量の余剰人員を整理する方針を組合側に提示したが、組合は馘首反対の闘争を組んだ。その中では馘首反対のためのゼネスト計画もあったが、当局との交渉に入り、スト指令を取り消す代わりに、当局は人員整理案を撤回することで合意ができ、この馘首反対闘争は組合側の勝利となった。浜松工機部での闘争では特に青年部・婦人部が各職場を回ってオルグを行い、士気の高揚に努めていた。中止に追い込まれた二・一ストの後、工機部の組合は様々な要求事項を決めたが、その中に、未成年女子に対する労務用物資の確保、結婚手当の支給促進がある。これらは青年部や婦人部から出されたものであろう。この要求は時間がかかったものもあったが、実現を見ている(『浜工労働運動史』)。
 地方選挙を前にした昭和二十六年二月、国労本部の丸沢婦人部長が工機部の公舎で主婦たちを前にアメリカ帰朝報告会を行った。その中で丸沢は、アメリカでは家族による組合が親組合を助けていると話した。この話を聞いた主婦たちは家族組合を日本でもつくろうとし、昭和二十六年四月に、一 労働組合の仕事を助ける、二 婦人の地位向上につとめる、三 家庭生活の改善をはかるを目的に日本初の労組補助組合である友愛会を結成した。この会は二百世帯の家族の主婦からなり、親組合との連絡会の開催、組合機関誌の回覧、工場当局や中央への陳情、講師を招いての座談会開催、工場見学、日用品の廉価な斡旋、内職の斡旋など創意あふれる活動を展開した。この家族補助組合の活動は、全国各地の国鉄労組に波及し、北は釧路から南は鹿児島まで三十五年一月時点で六百八十七組合に達した。この友愛会は二十六年春の知事・県会議員・市長・市町村議会議員選挙にはメガホンを持ち、乳母車を押して街頭宣伝隊として活躍した。家族組合は後に家族会と名称を改めた。また、浜松では日通労組浜松分会にも家族組合が組織された。