[農民運動の再生]

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【山崎光雄 農民運動 三方原農民組合 北浜村農民組合 西部地方農民組合連合会 静岡県農民組合協議会 池田熊治 大野篁二 浜松市農民組合 長谷川保】
 戦前、浜松での農民組合運動の中心となり、日本楽器争議への連帯支援の活動を行っていた山崎光雄は終戦当時農林省の外郭団体である農地開発営団天竜川農業用水改良事務所に勤務していた。山崎は昭和二十年十二月にGHQが農地改革に関する覚書(農民解放指令)を発表すると、直ちに戦前の農民運動指導者の協力を得て、翌年四月に農民三百名を結集し三方原農民組合(書記長・山崎光雄)を結成した。「三方原農民組合、三〇〇名というのは、戦後〝全国で二番目の組合だ〟としてGHQからも視察、調査にきた。」と山崎は記している(『旗を高く掲げて』)。同農民組合は二十一年二月に結成された日本農民組合に参加している。同年四月に三方原農民同盟が出した当面の主張には九項目が記されているが、当時の事情を物語る五つの項目を記しておきたい。一、官僚的高圧的供出反対。合理的供出の促進。三、強制買上げの軍用地を即時耕作農民に返還せよ。四、不在地主の山林原野等遊休土地を即時耕作者に与へよ。五、地主による土地取上げ反対。不在地主の土地を小作人に解放せよ。七、官僚的農業会の粛正と徹底的民主々義化の実現。三方原に続いて同年五月に北浜村農民組合が結成され、六月には西部地方農民組合連合会(会長・山崎光雄、書記長・鈴木勇(都田))が結成された。同連合会は昭和二十二年一月には、湖西地区七、浜名地区二十五、引佐地区六、磐田地区十二の計五十組合、組織人員七千名に達した。昭和二十一年八月には静岡県農民組合協議会が結成された。
 なお、浜松の高台地区には、昭和十四年(一九三九)七月に当地方の小作者を中心とした農民運動組織として己卯興生会が発足していたが、時局柄その活動が穏当でないという理由で活動を一時停止していた。戦後になって、地主による土地の取り上げや小作料問題が各地で起こりつつあることから、同会を復活させ、高台地区を中心とする農民組合結成の準備が住吉町の池田熊治、大野篁二などによって進められていたようである。この動きは昭和二十一年三月十三日に浜松農蚕学校で浜松市農民組合の結成となり、「農民組合ト其使命」と題した講演が長谷川保によって行われており、住吉・幸・曳馬・和地山・和合・富塚・泉・葵など高台地区の人たち九十人ほどが参加していた。
 このような農民組合の運動は「土地を働く農民に」という切実な要求を基礎に、各地の農地改革の動きを監視し、常に農民の利益を守ろうとしたものであった。しかし、農民組合の運動は農地改革事業が進展するのに伴って急速に下火になっていった。