[青年団・青年会の運動の再出発]

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【浜松市援護会 在外父兄救恤学生同盟 市民生活擁護同盟 浜松市案内所 浜松市連合青年会 農村演劇 都田村青年団 青年会 青年団 機関誌】
 戦前、浜松地域の青年団・青年会は戦争が激しくなるにつれて、銃後奉公会の日常的な活動をするようになった。具体的には、農村部では食糧増産と供出、応召する兵士の壮行会への参加と見送り、慰問品や慰問文の発送、武道大会、防空訓練、軍事援護活動などであった。
 戦後になって青年団・青年会の組織は解体されることはなかったが、銃後奉公会は解散となり、代わりに昭和二十一年一月十日に浜松市援護会が設置された。この会は社会事業団体として相互扶助の道義に基づき、生活困窮者・遺族・傷兵・戦災者・外地引揚者などが独立自営できるように援護するのを目的としたが、これらを援護する活動は各町にも依頼され、青年会や婦人会が仕事を分担するようになった。浜松工業専門学校の学生は在外父兄救恤学生同盟を組織し、戦災者や引揚者への援護資金の募集を始めた(『静岡新聞』昭和二十一年五月八日付)。また、在外父兄救恤学生同盟員や市民生活擁護同盟員、市内の男女青年団員は浜松駅構内と駅前に作られた浜松市案内所で復員兵や引揚者への献身的な援護を行っていた(『浜松市戦災史資料』四)。
 浜松市連合青年会は昭和二十一年九月一日に市議事堂で結成大会を開催した。東・西・南・北・中央・白脇・萩丘・富塚・曳馬・蒲の十部会がこれに参加した。この会には文化部・政治部・体育部・家政部が設けられ、事業計画を立てて活動を始めていったが、その目的は「男女青年の修養」であった。戦前・戦中にかけての青年会の活動が継承されている側面がうかがわれる。このころ、主として農村部の青年団は文化講座、読書会、研究会などの活動に混じって娯楽としての農村演劇を盛んに行っていた。会場は学校の講堂や神社の境内で、長谷川伸のやくざ物などが演じられた。農村部は都会のような映画がなく、娯楽に飢えていたのである。ただ、程度が低く、不健全な方向に流れることへの危惧もあり、昭和二十一年七月九日付の『静岡新聞』は「…農村演劇の矯正指導は刻下の急務であり、…」としている。青年団の素人芝居は郊外の農村部では昭和二十年代の後半まで続いた。昭和二十二年度、都田村青年団では、新憲法施行の日の集い、弁論大会、衛生講話、陸上・野球・卓球の大会、農繁休慰安会などのほか、都田川の河川修理工事の勤労奉仕を十日間にわたって行っている。戦前からの活動の継承と新たな活動の工夫がうかがえる(『新編史料編五』 三教育 史料78)。
 活動が活発になると、多くの青年会・青年団は機関誌の発行に踏み切った。東伊場町青年会は『まなび』、豊西村青年団は『大地』、長上村青年団は『萬年青』、都田村青年団は『青年団報』、三方原開拓青年連盟は『拓土』を発行している。豊西村青年団員の川合庄司は昭和二十二年一月の『大地』創刊号に「各団員平等に意見発表してゆく権利を有する」とし、「各団員が各自の生活を生甲斐あらしめようとし、今日よりは明日、明日よりは明後日と各自の生活をより意義あらしめようと努めるその過程を各自のものとして卒直に遠慮なく月刊雑誌『大地』に発展(表)してゆけば、これが『大地』を発展させてゆくのである、そして、これが団員の文化向上であり、郷土文化を創造してゆき、農村の民主化を促進してゆくのである。」と述べている。機関誌が団の枠を越え郷土文化の創造と農村民主化を視野に入れて作られていたことが分かる。また、東伊場町青年会の『まなび』では郷土の最大の祭りである浜松まつりについて率直な批判を加えている(『新編史料編五』 七社会 史料67・103)。