[朝連と民団]

346 ~ 346 / 900ページ
【在日本朝鮮人連盟 朝鮮人学校 在日本朝鮮居留民団】
 終戦前までは多くの朝鮮人が強制連行をされるなどして浜松はもとより、北遠の鉱山や中遠の軍事施設など各地で厳しい労働に従事させられていた。昭和二十年八月十五日以降は戦勝国民となり、各地の会社や事業所から解放され、朝鮮半島への帰国を開始した人が多かった。日本通運浜松支店の十一名、鈴木式織機の百十名はそれぞれ同年八月三十日と九月十日に退所している。しかし、帰国を急ぐ朝鮮人が朝鮮に渡るため下関や博多に殺到し、対応できない事態が起き始めた。このため静岡県は当面静岡・浜松・沼津・清水の戦災四都市の復興清掃事業に従事させることにした。このように帰国事業を進めつつ、在日朝鮮人は自らの生活を守るために、二十年十月、在日本朝鮮人連盟(朝連)の中央本部を東京で結成し、静岡県でも県本部をつくり、浜松では浜松支部が出来た。また、民族教育を推進する朝鮮人学校を翌年に浜松で開校した。これらの動きとは別の動きも同時に起こっていた。昭和二十一年十月、在日本朝鮮居留民団(民団)が東京で結成され、静岡県でも支部が翌年八月にでき、浜松でもこれに参加する人たちも多かった。両派の対立は昭和二十三年、朝鮮半島に民団が支持する大韓民国(韓国)、朝連が支持する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が出来るとさらに激化した(小池善之著「敗戦後の在日朝鮮人の動向―静岡県の場合―」『静岡県近代史研究』第三二号)。
 なお、昭和二十二年度の外国人登録から把握できる浜松警察署管内の朝鮮人は千三百五人であった。