[浜松乱闘事件]

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【国際マーケット 小野近義 小野組 小野興行社 無料診療所 浜松乱闘事件】
 戦後、浜松の青空市場(やみ市)が密集していた繁華街には日本人の露天商のほかに朝鮮人のそれも店を構えていた。両者とも様々な手段を使って暴利を得ていたようだが、互いに反目し小競り合いが続くようになった。昭和二十二年四月ごろ、浜松駅前の新川端(東側)に朝鮮人が経営する国際マーケットが建設され、同年八月ごろから二階にダンスホールが店開きした。これは経済情勢がやや好転し、やみ市での利益が減ったため、興行関係分野に進出するためでもあった。このような背景の下、日本人と朝鮮人の同業者間で軋轢が次第に高まっていた。
 さて、浜松では大正時代に服部治助が東京霊岸島枡屋一家となり服部組を創設、初代組長となって主として興行関係に大きな力を持っていた。昭和十七年になると服部組の二代目を襲名した小野近義は小野組をつくるまでになった。二十二年四月に小野は県議会議員に当選、その後小野組を解散し、露天商組合を組織、また静岡県露天商組合連合会長として活躍した。翌年三月には同連合会長を辞任、小野興行社の社長として興行関係に大きな力を持っていた。また、一面で貧窮者が利用できる無料診療所をつくったこともあった。
 こうしたなか、昭和二十三年四月四日から六日にかけて元小野組関係者と一部の朝鮮人が市内中心部で銃撃戦を展開するという前代未聞の浜松乱闘事件が発生した。
 事の発端は、国際マーケットの二階にあるダンスホールでダンスパーティーに依頼していた日本人の楽団員が来ないのでパーティーが中止になったことである。主催する朝鮮人は元小野組の意図的妨害であると曲解し、四日午後小野の千歳町の店舗に押し掛け、建物などの一部を破壊して逃走した。浜松市警察署は署員を非常招集して警戒に当たっていたが、夜十時ごろ朝鮮人十数名が元小野組の幹部宅に拳銃や日本刀を持って押し掛け、両者は市内鍛冶町・千歳町・伝馬町・大工町などで大乱闘をするまでになった。警察は武装警官を出し、鎮圧に努めたが、朝鮮人はこれに応戦し双方で銃撃戦を展開、その後鎮静化した。これで落ち着くかに見えたが、五日の夜になって朝鮮人と元小野組が県内外から応援部隊を集め、再び市内中心部で銃撃戦を展開、特に小野宅への朝鮮人の殴り込みとこれに対する元小野組の応援者による国際マーケットの襲撃ではピストル、自動小銃、日本刀による激しい武装闘争が展開された。これに対して浜松市警と国家地方警察は数百名の武装警官を市内に配置し鎮圧に努めた結果、四月六日の午前二時ごろになってようやく鎮圧できるまでになった。この乱闘事件による死者は三人(うち一人は通行人で流れ弾による)、重傷者は十四名、軽傷者は二名に上ったと『静岡新聞』(昭和二十三年四月八日付)は報じている。この事件の推移は連合軍も注目し、岐阜から百数十名の警備部隊が来浜する事態となった。新聞は「他県から来た朝鮮人の一部不良分子と旧小野組との勢力争いが原因とみられ…」と書き、『浜松警察の百年』は、やみ市や興行の利権をめぐる勢力争いであるとし、「日本人やくざと、不良朝鮮人との間における、いわゆる〝ギャング同士〟の闘争であった」と記した。ただ、戦後の混乱期における在日朝鮮人の立場がかなり複雑な状況にあったことも考える必要がありそうだ。また、この事件は新しい警察制度が施行された直後のもので、警察にとっては新制度の再検討が始まるきっかけともなった。