[終戦時の混乱と厚生事業の展開]

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【生活保護 方面委員 社会救済三原則】
 終戦直後、焦土と化した浜松には戦災によって焼け出された人々、外地からの復員軍人や引揚者、傷痍軍人、失業者、軍人の遺族や未帰還軍人の留守家族、浮浪者や戦災孤児など、日常の生活に困窮する者が多かった。当時の厚生省の調査によると人口の約一割が生活保護の必要な状況であったという。このような状況を改善するため、国・県・市の当事者はもちろん、戦前から援護活動に携わっていた方面委員をはじめとする人々も活動を再開した。これらの活動を支えたのは終戦までに築かれていた社会事業の制度であった。
 大正期に育ち始めた社会事業のうち、生活困窮者への支援を目指す救護法は昭和四年(一九二九)に制定され、同七年から施行された。母子世帯の保護を目指す母子保護法は十二年、農村・漁村への地域保険としての任意加入の国民健康保険法は十三年、生活困窮者への医療や助産を目的とした医療保護法と労働者の年金制度としての労働者年金保険法が十六年にそれぞれ制定されていた。さらに、この保険法の加入適用範囲を拡大し、女性を含め五人以上を使用している事業所が強制加入とされた厚生年金保険法が十九年に制定されている。また、空襲による被災者を保護するための戦時災害保護法が十七年に制定された。これらの立法は総力戦を勝ち抜き、国防目的を達成するためになされたが、戦後の社会福祉事業を再開する際の土台となった。
 終戦直後から要救護者への支援が行政や社会事業団体の手で行われてきたが、GHQは昭和二十年十二月に救済ならびに福祉計画に関する件と題する覚書を出し、さらに翌年二月に社会救済に関する覚書を政府に示した。後者の覚書の中で、社会救済三原則として①無差別平等の原則(旧軍人、その家族への救済を優遇することを禁止)、②国家責任、公私分離の原則、③最低生活保障の三原則を示した。以後、この三原則がその後の公的扶助の基本となった。