終戦前に外地や占領地で暮らしていた人々が戦後続々と引き揚げてきた。彼らに住居を提供することは市当局にとって大きな課題であった。市は表2-48のように引揚者住宅を建設し、収容していった。この表によると引揚者住宅に収容できた世帯数は昭和二十七年あたりまでが多い。昭和二十一年から昭和二十八年までを平均すると、毎年約十五世帯の引揚者を収容できる住宅建設がなされていた。それ以降の建設は下火となり、昭和三十年が最後となった。なお、引き揚げは三十三年ごろまで続いた。ただ、引揚者のための住宅は十分とは言えず、三方原の開拓地(白昭、根洗、浜松開拓)に入植した人たちも多かった。
表2-48 引揚者住宅の建設一覧
出典:『浜松市勢要覧』各年より作成
注:収容世帯数・収容人員は収容可能人員ではなく、『浜松市勢要覧』発行時の収容数。
名称 | 所在地 | 収容世帯数 | 収容人員 | 竣工年月日 | 出典 |
浜松市第二収容所 | 葵町 | 34 | 163 | 昭和21/9/1 | 『市勢要覧』昭和24年版 |
浜松市龍南荘 | 龍禅寺町 | 24 | 105 | 昭和22/3/31 | 『市勢要覧』昭和24年版 |
昭和25年度引揚者住宅 | 鴨江町 | 10 | 41 | 昭和26/3/31 | 『市勢要覧』昭和26年版 |
昭和26年度引揚者住宅 | 鴨江町 | 16 | 57 | 昭和27/3/31 | 『市勢要覧』昭和27年版 |
昭和26年度引揚者住宅 | 小沢渡町 | 24 | 118 | 昭和27/3/31 | 『市勢要覧』昭和27年版 |
引揚者住宅 | 名残町 | 5 | 12 | 昭和28/9/23 | 『市勢要覧』昭和28年版 |
引揚者住宅 | 中善地 | 1 | 2 | 昭和29年 | 『市勢要覧』昭和29年版 |
引揚住宅 | 笠井町 | 1 | 2 | 昭和30年 | 『市勢要覧』昭和30年版 |
引揚住宅 | 都田町 | 1 | 4 | 昭和30年 | 『市勢要覧』昭和30年版 |
注:収容世帯数・収容人員は収容可能人員ではなく、『浜松市勢要覧』発行時の収容数。
表2-49 引揚者住宅収容世帯・人数の実態
出典:『浜松市勢要覧』昭和24年〜34年版より作成
注:表中の「住宅」とは「引揚者住宅」の略。
注:昭和32年~34年には「収容施設(収容世帯・人数)」の記述はない。
注:『浜松市勢要覧』昭和35年版からは、引揚者住宅についての記述がなくなる。
年度 | 収容世帯・ 人数計 | 収容施設(収容世帯・人数) |
24 | 58世帯268人 | 第二収容所(34世帯163人)、龍南荘(24世帯105人) |
25 | 20世帯 91人 | 龍南荘(20世帯91人) |
26 | 27世帯120人 | 龍南荘(17世帯79人)、昭和25年度住宅(10世帯41人) |
27 | 50世帯218人 | 25年度住宅(10世帯43人)、26年度住宅鴨江町(16世帯57人)、 26年度住宅小沢渡町(24世帯118人) |
28 | 5世帯 12人 | 27年度住宅名残町(5世帯12人) *この人数は27年度開設の名残町住宅分のみか。 |
29 | 57世帯233人 | 鴨江町(26世帯112人)、小沢渡町(24世帯98人)、名残町(6世帯22人)、中善地(1世帯2人) |
30 | 59世帯242人 | 鴨江町(25世帯107人)、小沢渡町(25世帯105人)、名残町(6世帯22人)、 中善地(1世帯2人)、笠井町(1世帯2人)、都田町(1世帯4人) |
32 | 242人 | |
33 | 251人 | |
34 | 249人 |
注:表中の「住宅」とは「引揚者住宅」の略。
注:昭和32年~34年には「収容施設(収容世帯・人数)」の記述はない。
注:『浜松市勢要覧』昭和35年版からは、引揚者住宅についての記述がなくなる。
邦人の引き揚げが遅れたのは満州や北朝鮮などであった。そこで、県外地引揚者互助会西遠支部は昭和二十一年七月に浜松第一中学校の講堂で未帰還同胞救出促進のための講演会を開催している。帰還が遅れた人々のうち、ソ連により満州からシベリアに抑留された兵士たちがいた。極寒のシベリアでの重労働と栄養不足で多くの犠牲者が出たが、昭和二十四年六月、再開されたシベリア抑留者の引き揚げ第一船の高砂丸が舞鶴に着いた。引揚者二千人のうち、地元出身者は浜松市三名、浜名郡五名であった。同年七、八月に浜松市出身者は三十三名が帰国したが、浜松市引揚援護愛の運動協議会の調査では、いまだに百九十人が帰還していなかった。
ソ満国境で終戦を迎えた長上村の鈴木八郎(ペンネームは鈴木ゆすら)はソ連軍に捕らえられ、間島捕虜収容所(現在の中国吉林省)に送られた。ほとんどの将兵がシベリアに送られる中、病気にかかったためこの収容所で捕虜生活を続けることになった。ここでの言語に絶する体験は『間島捕虜収容所』に詳細に記されている。鈴木が浜松に帰ったのは昭和二十三年十月のことであった。
なお、民生委員は引揚者の家庭を訪問し、帰還者の状況や本人の所感・希望を調べ、今後取るべき措置(就職の斡旋など)を調査票に記入し、市に提出するなどの援護活動をしていた。
昭和二十五年七月、海外抑留同胞救出国民運動静岡県浜名郡支部が結成され、引揚促進の運動が展開された。戦後五年たっても未帰還者は県下で三千五百人にも上っていた。