[軍人遺族・傷痍軍人への援護]

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【戦災殉難者追悼大法会 浜松市遺族会 浜松身体障害者竹芸工職業補導所 傷痍軍人】
 浜松市と浜松市仏教会主催の戦災殉難者追悼大法会は昭和二十年九月二十一日に鴨江寺で開かれた。また、同年十二月には「大東亜戦争で戦死、戦病死を遂げた市内出身の八十七柱の英霊の合同市葬儀」を浜松一中講堂で仏式により行った(『静岡新聞』昭和二十年十二月十七日付)。終戦前から戦後しばらくまでは戦没者の合同葬儀が市の主催でたびたび行われていたのである。当時は大東亜戦争、英霊という文言を使用していた。
 昭和二十一年十一月に浜松市遺族会が結成されたが、国や市が主催する戦没者追悼式はサンフランシスコ講和条約が発効した後の昭和二十七年度からの開催となる。遺族会結成の背景には、昭和二十一年勅令第六十八号により同年二月一日に軍人遺族への恩給法による扶助料が停止されたことにも関係があるようだ。また、傷痍軍人への保護施策も廃止となった。このため政府は十八歳以上の身体障害者一般への支援法とすることでGHQの了解を取り、二十四年十二月に身体障害者福祉法を制定、翌年の四月から施行された。この法律では職業リハビリテーションによる支援が中心であった。浜松では二十五年十一月二日に浜松身体障害者竹芸工職業補導所を紺屋町に設置し、第一回生十名は花かご、茶道具などの高級品の製作に励んだ。軍人遺族への扶助料はサンフランシスコ講和条約発効後に復活した。
 戦後間もなく、春秋の彼岸や大きな催しがあるたびに手足などを失った傷痍軍人が白装束に戦闘帽をかぶって街頭に立ち、アコーディオンやハーモニカを伴奏しつつ軍歌を歌い、市民に募金を呼び掛ける光景が見られた。国や市などの援助の足りない状態が続いていたのである。このような光景は昭和三十年代半ばごろまで見られた。