[生活保護法による施設の設置]

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【浜松市鴨江救護所 西山園 浜松市立慈照園 聖隷保養農園 長谷川保 弁天島同胞寮 慈悲庵浜松希望寮 影山学】
 生活保護法の施行により幾つかの施設が出来た。要保護者の収容施設として浜松市救護所が昭和二十一年十二月に開設された。二十三年十二月時点で、十五名が入所していた。昭和二十五年には浜松市鴨江救護所と改名、その後郊外に移転し、西山園となっている。
 浜松には静岡監獄浜松分監からの出獄者を保護し、更生させるために明治四十五年(一九一二)に遠州保護会が設立された。市内の住職と有志による免囚保護施設として重要な働きをしていた。大正十年(一九二一)には財団法人遠州仏教積善会となり、刑余者だけでなく、生活困難な者も保護するようになっていた。この施設は昭和二十年六月十八日の大空襲で一切を焼失、事業は一時中断した。しかし、関係者の努力により、二十二年に戦前の半分以下の二十二坪の施設をつくり事業を再開した。終戦後は衣食が不十分で犯罪も多く、昭和二十五年の保護人員は六百三十名余を数えた。二十六年になると浜松市が設置主体となり、木造二階建ての新施設が完成、二十七年六月一日に浜松市立慈照園が事業を開始した。
 聖隷保養農園の長谷川保は昭和二十一年四月の総選挙で当選、生活保護法の制定に尽力したことで知られる。長谷川は聖隷保養農園内に聖隷更生園の前身となる更生施設を二十一年十一月に建設した。また、県などにより、翌月には弁天島に母子世帯のための弁天島同胞寮が設立されたが、この同胞寮の設立に大きな役割を果たした。
 戦災者や引揚者、未亡人、孤独な老人などに住宅を提供する施設として、昭和二十五年五月に社会福祉法人慈悲庵浜松希望寮が出来た。これは影山学が鴨江町に建設したもので、当初は地元民が反対運動はしたが、影山の熱意で収容施設二棟が造られ、初めは一世帯一人が収容された。水道も電灯も引けない状態でのスタートであった。当時はまだ防空壕で生活している人も多く、浜松希望寮では壕生活者や未亡人、引揚者などを数多く受け入れ、昭和二十七年には三十世帯、百十六名を収容するまでになった。