[孤児の収容とその援護]

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【戦災孤児 浮浪児 狩り込み 三方原学園 少年教護委員 葵寮 山内一郎 品川博 静岡県立浜松児童相談所 井上哲雄 館山寺子供の家福音寮 清明寮】
 終戦以降、多くの戦災孤児が駅の待合室や公園、神社などで浮浪生活を送るようになり、その不良化が大きな社会問題となってきた。東海道沿線の駅付近にたむろする孤児の中には、冬の寒さを避けて熱海付近の温泉地に移動する者も見られた。警察はこれら浮浪児を「狩り込み」と称して、一斉取り締まりを行い、県西部地方浮浪児仮収容所となった三方原学園などの施設に収容した。昭和二十一年八月だけでも三方原学園は浮浪児二十余名を収容したという(静岡県立三方原学園『教護七十年』)。しかし、自由気ままに過ごしていた彼らの中にはしばしば学園を脱走し、問題を引き起こす者もあった。二十一年十月、民生委員令の制定で、民生委員は少年教護委員を兼ねることになり、学校・警察・少年審判所などと提携し、これら児童の不良化防止と早期発見に努めることになった。県内各所から浮浪児が三方原学園に収容されることとなったが、その数は九十名を突破するまでになった。
 県は新たに孤児の収容施設をつくることを考え、三方原学園の協力により、学園に近い旧中部百十三部隊の元将校集会所(今の本田技研工業浜松製作所クラブハウス付近)と兵舎を改造し、昭和二十二年六月に葵寮を開設した。『遠州展望』昭和二十二年十一月号(第四号)によると当時この寮には八十六名が収容されていた。内訳は戦災孤児三十六名、引揚孤児四名、一般孤児四名、家出少年四十二名であった。収容前の様子は乞食二十五名、靴磨き十二名、新聞売り十名、その他商売七名、不良行為二十名、その他不明が十二名であった。年齢は八歳から十九歳まで、特に十三歳から十六歳が多く、六十八%を占めていた。男女比は男子八十名、女子六名であった。収容された孤児たちの家庭状況は両親とも無かった者が三十八名であった。また、八十六名のうち、ほかの収容所を一回以上逃亡したのは六十六名の多きに上り、六回以上の者も十名いた。葵寮ではこれらのことを勘案して指導形態を監禁・軟禁・解放の三つとした。監禁は施錠された部屋に閉じ込め、屋外作業は行わなかった。ここで態度が良くなると軟禁に移り、日中は農作業などを行い、夜のみ施錠した。解放は農作業や野球、水泳などを行い、施錠はなかった。葵寮には、三方原学園で永年教護に尽力してきた山内一郎や、後年「鐘の鳴る丘」のモデルと言われた少年の家をつくった品川博らがいた。品川が初めて戦災孤児に出会ったのが葵寮であった。このような教護は定着率はいいものの、新憲法における基本的人権の尊重とは相いれないとのことで、園長が処分されるに至り、昭和二十三年三月で閉鎖となった。
 これより先の昭和二十三年一月に児童福祉法が施行された。この法律は単に戦災孤児や浮浪児だけが対象ではなく、母子家庭や障害児を含む児童一般の福祉の増進を目指しており、法律名に初めて「福祉」が使われた。同法により、二十三年四月、閉鎖された葵寮に静岡県立浜松児童相談所が設置された。ここでは児童の福祉増進のため、相談と児童の資質の鑑別、保護などの事業を実施し、葵寮に収容されていた児童も受け入れていた。ここでの相談内容は、昭和二十三年度は浮浪児問題、二十四年度は少年事件、二十五年度は家庭からの教育に関する相談が増えた(『新編史料編五』 七社会 史料61)。
 これら公的な施設のほかに民間の施設も出来た。キリスト教の牧師であった井上哲雄は終戦時の混乱で満州で生まれた孤児を育てるため、ハルピンでハルピン愛生孤児院を立ち上げた。その後井上は百五十人の孤児と共に内地に引き揚げてきた。そして昭和二十二年五月、舘山寺につくったのが館山寺子供の家福音寮であった。この寮は静岡県が日本医療団から買収した施設で、元は館山寺ホテルであった。二十四年八月時点で、十一名の先生と九十余名がここで一つの家族のように生活していた。子どもたちの内訳は引揚げ孤児二十三名、戦災孤児十二名、その他の孤児二十名、親があっても貧困で育てられないため預かってもらっている子どもが三十六名であった。浜松市立南部中学校の新聞部の記者がこの寮を訪ねて記事にしたのは昭和二十四年八月のことで、この寮のことを詳しく報告している(『新編史料編五』 七社会 史料60)。この寮は県下有数の観光地にあり、戦後徐々に観光開発が進んでくると、「子供の家〝福音寮〟移転 付近で観光客ドンチヤン騒ぎ」(『静岡新聞』昭和二十五年十二月二十九日付)の見出しのようになった。移転先は浜松市新橋町の大通院の跡地と決まり、昭和二十七年三月に移転、同年四月一日に清明寮となった。昭和二十八年度の収容人員は百二十人であった。以後、この清明寮は恵まれない子どもたちのための福祉施設として養護と教育に当たり、今日に至っている。