[母子福祉施設の開所]

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【弁天島同胞寮 山形春人 長谷川力 雨宮恵 浜松母子福祉苑浅田ホーム 母子寮】
 一切を無くした戦災者や引揚者の中でも母子世帯の境遇はひどいものであった。先述のように長谷川保らは県に母子寮の建設を働き掛けたが、これにより県は弁天島にあった元中島飛行機の工員寮と土地を買収し、弁天島同胞寮という母子寮を建設、昭和二十一年十二月二十五日に開所した。恩賜財団同胞援護会静岡県支部が経営に当たり、発足時の定員は百二十世帯、四百八十人であった。寮内には保育園と授産所が設けられ、授産所ではミシンによる縫製加工や漁網づくり、また、日本楽器会社はピアノの部品生産を出すなどして協力したという。寮長は聖隷事業団創業者の一人である山形春人、職員は後の聖隷福祉事業団の理事長となる長谷川力、牧師は雨宮恵など、聖隷関係者が多かった。子どもたちの教育や文化活動も盛んで、各種のスポーツやキャンプ、雨宮をはじめとするキリスト教関係者による礼拝やクリスマス会などが行われ、弁天島同胞寮は日本一の母子寮と言われるまでになった。山形は後に厚生省の中央児童福祉審議会の委員として活躍するほどになった(『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』)。昭和二十六年に恩賜財団同胞援護会の解散後、財団法人弁天島同胞寮となり、事業を継承、その後社会福祉法人に組織替えになった。建物の老朽化に伴い、昭和三十八年に浜松市浅田町に移転し、五十八年に社会福祉法人の浜松母子福祉苑浅田ホームとなった。その後、浜松市南区新橋町に移転、改称して事業を継承、今日に至っている。
 浜松市の母子寮が小沢渡町に出来たのは昭和二十七年三月であった。このニュースは『広報はままつ』の創刊号(昭和二十七年九月十五日号)に「母子に福音」「母子寮開設」の見出しの下、不幸にして夫を失った妻、父を失った子の生活は並々ならぬ苦労を伴うものだが、このような母子に希望に満ちた生活の基盤を与えることを目的につくったと記している。寮には一定の資格のある職員が起居を共にし、就職や生活相談などの世話をしていた。寮には居室のほか、静養室、医務室、学習室、保育室、入浴場などが完備され、図書や遊具、楽器なども置かれていた。文末には「此の寮から幾多の母子が楽しい希望に満ちた夢を画がきつつ、雄々しく再起生活のスタートをきることを想うとき、市民の皆さんと共に、その将来を祝福いたしたい」とある。
 なお、昭和二十二年四月に開所した鴨江町の浜松仏教養護院の中に母子家族を入れる母子寮があり、昭和三十三年には十世帯が入っていた(『広報はままつ』昭和三十三年九月二十日号)。