[浜松市母子の会による授産事業と市の授産所]

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【浜松市母子の会 西川熊三郎 布橋幼稚園 飯尾哲爾 栩木淑子 むつみパン 技能習得所 未亡人会 浜松市未亡人母子福祉会 授産所 海老塚授産所】
 浜松の母子福祉の分野で特筆すべきは浜松市母子の会の活動である。昭和二十四年四月十日、戦争未亡人三百名が立ち上がり県下で初めて母子の会が結成された。しかも、行政からの働き掛けによるものではなく、戦争未亡人たちの声を結集して会がつくられたのである。会長には坂田浜松市長が就任、同会の後援会長は企業経営者の西川熊三郎であった。母子の会でこのような後援会を持ったものは珍しく、西川や多くの人たちが寄せた五十万円に近い寄付金によりいろいろな事業が可能になった。二十四年、働く未亡人にとって小さな子どもが足手まといになることから、子どもたちを預かる事業を名残町の宗円堂で開始、それが翌年二月に布橋幼稚園となった。同幼稚園は母子の会の経営で、園長には近くの追分小学校長で、『土のいろ』で有名な飯尾哲爾が就任した。ただ、実質的には会員の栩木淑子が幼稚園の経営や保育に当たった。栩木は二十七年に会員としては初めて会長となり、会の発展と幼稚園教育に尽力した。浜松市母子の会の十周年記念誌の『あゆみ』には「九十才に近き祖母と三人の幼児すがるかこの細腕に」、「戦死せし夫を忘るゝに非らず生き甲斐を保育に見出し今日迄は来し」などの歌を寄せている。栩木は後年夫の戦死したルソン島を訪ね、『ルソンの小石』を著し、歌人としてもその名を知られた。会の授産事業では五、六人の母親が高校などの臨時売店ヘパンの販売に出掛けていたが、その後はパン工場(むつみパン)の経営に当たった。その後は委託経営を経て、母子の会を離れることになったが、むつみパンからは援助を受けた。昭和二十九年からは東田町に技能習得所の建設を始め、翌年六月一日に開所式を挙げた。ここでは洋裁、編物の技術指導が昼と夜、週三回行われた。母子の会によるこの事業は全国でも稀なものとして注目を浴びた。
 浜松市以外の町村でも未亡人会はあった。笠井町では昭和二十六年に未亡人会がつくられた。問題は運営資金で、篤志家の寄付や映画会による収入に頼り、和田村では村からの助成金や芝居・映画で資金を得ていた。三方原村では三方原遺族会の婦人部として出発、同二十九年に未亡人会が出来た。これらのほか、多くの村でも同様な組織ができ、浜松市への合併とともに浜松市母子の会に加盟してその支部となった。
 なお、浜松市母子の会という名が十数年使われてきたが、これは愛称ということで、後年には浜松市未亡人母子福祉会の名称が使われるようになった。
 浜松市は戦後になって馬込町と海老塚町に要援護未亡人のために授産所を開設した。そこではミシン縫工と学童用の靴づくりが行われていた。昭和二十六年十一月の時点では海老塚授産所のみで、職員は四名、従事していた者は二十六名であった。設備としてはミシンを五十四台備えていた。