[凧揚げ祭の復活]

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【浜松市連合青年会 凧揚連合会 凧揚げ祭 西寮グランド 浜松市凧揚連合会 統監部】
 凧揚げ祭の復活は昭和二十二年に果たされた。この祭の準備としては昭和二十二年四月に浜松市連合青年会や凧揚連合会の代議員会や理事会などがたびたび開かれ、凧揚げ祭の日程や行事などが決まった。四月三十日に浜松市連合青年会長は各町の祭担当者に「凧揚げ祭行事計画に就て」の文書を送ったが、その中に「御存知の如く物資欠乏の折で各町内常に凡ゆる点に於て困難を感ずる事と思ひます。倹約する所は倹約致しまして私達は新時代に生きる青年らしく、此の伝統を保持して大いに元気よく、堂々と行はうではありませんか。」と記している。凧揚げに参加した町は、北寺島・相生・浅田・船越・三組・砂山・佐藤・天神・八幡・海老塚・平田・馬込・寺島・野口・追分の十五町にとどまった。これらの町は空襲の被害が中心部よりやや軽微であったのと、戦後復興も中心部より早かったためであろう。それに比して田町・鍛冶町・旭町・肴町・連尺町などの中心部はどこも参加できない状況下にあった。祭りの期間は五月三日から五日までであったが凧揚げは四日と五日の二日間、会場はこれまでと異なり、名残町の浜松工業専門学校の西寮(今の静岡大学あかつき寮)グランドであった。凧揚げの模様を『青年タイムス』は「凧は何か生物の様な感覚を与へながら大空に乱舞する、若人の心は凧の動きに集る。『糸だ』『糸だ』『そら敵だ』かくして幾年振かの凧揚合戦は何時果てるともわからなかつた。」と記している。
 戦前は和地山練兵場での凧揚げが終了後、ここに集結していた屋台は行列と練りを繰り返しながら市街地へと向かった。戦後復活した凧揚げ祭では屋台は凧揚げ会場に集結する方式をやめ、昭和二十二年五月四日は旧元城国民学校(今のリッチモンドホテル付近)前の道路に集まった。この年屋台や神輿を出した町は四十六、凧と違い、田町・鍛冶町・元城町・板屋町・肴町などの中心部の町もあった。ただ、戦前の屋台が残っていたのは数台程度で、後は粗末なものであった。『青年タイムス』は「漸く夜の祭典は湧き立つ、昔懐しい囃子の音に連れてギシギシと特有の音を残して、動いて行く屋台、練廻る提灯の波、黒山の観衆近く提灯が、振られる度に、美しい乙女の微笑を、ほの明るく浮ばせた」と当時の屋台引回しの様子を記している。そのコースは三日と四日、五日では異なっていたが、五月三日の場合は五社神社→栄町→伝馬町→連尺町→神明町→田町→旭町→駅前(解散)となっていた。
 凧揚げ会の名称は、戦前は浜松連合凧揚会であったが、戦後は浜松市凧揚連合会とした。また、統監部も復活したが、構成メンバーは浜松市連合青年会会長以下の幹部であった。また、同連合青年会副会長の女性が統監部の一員となっている。女性の統監部入りは初めてのことであった。なお、昭和二十二年五月三日は祭初日であるとともに、日本国憲法施行の記念日であった。このため、この年の凧揚祭の趣旨は新憲法実施記念と郷土年中行事の復活という二つの面を持っていた。五月三日午後一時、五社神社に新憲法実施記念行事として青年一万五千名が参集し、新憲法の精神に基づき、新日本建設のため青年が中堅となって立ち上がることを誓った。