[中田島での凧揚げ]

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【中田島 浜松市連合凧揚会 五社神社】
 昭和二十三年と二十四年の凧揚げは遠州灘に面した中田島の特設会場で行われた。市街地から約四キロも離れた場所であり、屋台の凧揚げ会場への集結は不可能であった。祭りの期間は五月三日から五日までの三日間、いずれも昼間は凧揚げ、夜は屋台の引回しであった。凧揚げへの参加町は三十三で、前年より十八町増えたが、前年参加の馬込町が取りやめとなった。十八町の中には、田町、千歳町、板屋町、大工町、塩町、成子町、龍禅寺町など中心部にある町も多く、復興が進んだことがうかがえる。屋台は前年と同じ四十六町であった。
 昭和二十三年には、三月から四月にかけてたびたび会合が開かれた。主催団体の名称は浜松市凧揚連合会から浜松市連合凧揚会となり、会長には坪井貞治が就任した。四月三十日に同会が出した案内状には「復興浜松と共に再び健全娯楽、男性的大スポーツとして復活致し」と記されていた。五月に浜松市警察署と同会は連名で「凧揚ニ関スル注意事項」という文書を出した。それによると、期間や会場、屋台引回しの終了時刻、強制的な寄付の禁止などのほか、「凧揚ハ自治的ニ各町組ニ於テ行フモノニシテ司法権ノ発動ヲ見ルノ性質ニアラザルガ故ニ各組員ノ自覚ニ俟テ絶対的ニ警察署ノ手ヲ煩スガ如キ不祥事ヲ未然ニ防止スル様特ニ注意アリタシ」「凧揚ニ関スル事故ハ連合会役員ニ於テ処理スル」など、二十五項目にわたる指示があった。祭りの運営に関する自治の原則が確認されている。
 五月四日に凧揚げ会場を訪れた観衆は十万人を数え、戦前のピーク時の人出となった。浜松駅からは市営バスが観客を会場まで運んだが、発着場は大混雑であった。このため徒歩で行く人も多く、四キロの道には長蛇の列が出来た。会場には各町の旗が翻り、その間にアイスキャンデー屋をはじめ、多くの出店があった。凧揚げは午後一時から五時まで、いずれも花火を合図に行われた。この日は西風がよく吹いて凧は空高く上がり、「緑の風に空の乱戦」の見出しのような勇壮な闘いが繰り広げられた。屋台は平田の踏切付近に集結し、そこから市内の目抜き通りに繰り出した(『静岡新聞』昭和二十三年五月五日付)。
 昭和二十三年四月に浜松市連合凧揚会が出した案内状には先述のように「健全娯楽、男性的大スポーツとして復活」とあり、男性の祭りが強調されているが、屋台の引回しでは「女ばかりのおはやしを出した町内もあり人目を惹いた」との新聞報道もあって女性の参加が進みつつあることが分かる。
 
表2-52 凧揚祭から浜松まつりへの変遷
年度祭りの名称主催団体期間凧揚会場凧揚
組数
屋台
組数
備考
21浜松青年復興会5月5日15町の青年が神輿を担ぎ乱舞行進する。凧揚げや屋台引きは無し。
22浜松名物凧揚祭浜松市凧揚連合会5/3~5浜工専西寮グランド1546凧揚げは5/4、5のみ。
23浜松名物凧揚祭浜松市連合凧揚会5/3~5中田島海岸3346統監部に青年会女性が入る。
24浜松名物凧揚祭浜松市連合凧揚会5/1~5中田島海岸4254初日に五社神社拝礼。
25第1回浜松まつり浜松商工会議所内浜松まつり本部5/1~5和地山町旧練兵場5159観光的大カーニバルを目指す。
出典:『静岡新聞』昭和21年5月6日、22年5月3日、23年5月5日、24年5月1日付と『浜松商工会議所六十年史』より作成

 昭和二十四年の凧揚げ祭は五月一日から五日までの五日間となったが、これは静岡―浜松間の電化完成(同年五月一日から静岡―浜松間のほとんどの列車が電気運転になった)を祝って特に盛大に催すことになった。会場は前年同様中田島で行われた。凧揚げに参加する町は四十二町(組)で、前年より九町(組)増えたが、鍛冶町、肴町、常盤町、東田町、元城町など中心部の町が多かった。屋台は五十四町(組)で、前年より八町(組)増えた。電化完成により臨時列車が上下四本も運転され、これまでにないにぎわいとなった。
 なお、昭和二十二年の祭りでは屋台が五社神社からスタートしたことがあったが、二十四年になると祭りの初日に組代表の一人が午前十時に五社神社へ出て拝礼するという儀式を始めた。これは大正十一年(一九二二)から凧揚げに参加する各組の代表が五社神社に参拝するようになり、その後、五社神社の神輿の凧揚げ会場への渡御や屋台行列の先頭にこの神輿が立つ習わしとなっていたことの部分的な復活でもあった。なお、戦前、五社神社は浜松市の総社としての地位を得ていた。