[第一回浜松まつりの実施]

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【復興浜松商工祭 浜松電化祭 浜松まつり 和地山町の旧練兵場 広告カーニバル 浜松物産展示会 木遣り道中 寄付金集め 東伊場町青年会】
 昭和二十五年、それまでの浜松市連合凧揚会を中心として行われてきた凧揚げ祭(凧揚大会)の様相は一変する。それはこれまでの凧揚げ祭の反省から出てきたのである。その一つは消費的な面が多く、近代的意義がないこと、二つ目はゆすり、けんかなどが横行し、非文化的であること、最後は凧揚げ期間中は市内は寂れているというものであった。二十三年に行われた復興浜松商工祭は福引付全市一斉大売出しや多くの催しが開かれ、浜松中がにぎわった。また、これがきっかけとなって浜松商店界連盟が誕生、商店に活気が出てきた。翌年の浜松電化祭は多くの行事が開催され、主催者側が驚くほどの大成功となり、繰越金が出るほどであった。この二つの祭りの成功から、これらの祭りと従来からの凧揚げ祭を組み合わせ、商工業や農業、観光など全市を挙げ総合的な祭りを行おうとの考えが浜松商工会議所を中心に出てきた。「浜松まつり挙行の趣意書」には、「…各種行事の適切併行により名実共に世に知られた商工都市浜松の実力を発揮…」とある。そして、祭りの名称は浜松まつりとし、表2-53のように凧揚げはまつりの一つの行事とはなったものの、筆頭の行事に置かれた。第一回浜松まつり本部の組織を見ると、顧問は浜松市長、相談役は県議会議員や警察関係者、会長は浜松商工会議所理事の中村清次郎であった。副会長は市議会議長や商工会議所副会頭、委員は市議会議員や各町内の代表者が名前を連ね、商工会議所と浜松市、各町内の代表者がまつり本部の主要メンバーであった。まつり本部は浜松商工会議所内に置かれ、事務局には市の吏員や商工会議所の職員が勤めることになった。浜松まつりは総務部・凧揚部・演芸部・商工祭部・農業祭部・宣伝部の部門からなり、それぞれに担当役員を置いた。
 
表2-53 復興浜松商工祭・浜松電化祭・第一回浜松まつりの比較
名称復興浜松商工祭浜松電化祭第一回浜松まつり
実施日昭和23年 7/1~12昭和24年 7/1~10昭和25年 5/1~5
主催者浜松商工会議所浜松市,浜松商工会議所浜松まつり本部(浜松商工会議所内)
後 援国鉄浜松駅,遠州観光協会(協賛)遠州経営者協会,浜松放送局,浜松市体育協会,浜松市婦人連盟,各新聞社,業界各組合,浜松音楽協会,浜松商店界連盟浜松市,浜松商工会議所,国鉄名古屋鉄道局,遠州観光協会
目 的市制記念日を祝い、市民の生活のゆとりと楽しみを呼び起こす。東海道線沼津・浜松間の電化開通を祝い、沈滞した空気を一掃し、商工業の飛躍発展をめざす。愛市愛郷の心により、三百八十余年の伝統の凧揚げを近代感覚の競技に生かし純化して伝統を高揚し、大浜松のへの進展をめざし全市民を挙げて明朗に楽しめる一大祭典に発展させ本格的な観光的大カーニバルに成長させる。
行 事<凧揚部>
・凧揚げ競技大会・山車屋台引回し
・恵比寿抽選アトラクション
(二十の扉、のど自慢大会、楽団コンクール)
・和洋舞踏大会・素人芸能大会・納涼演奏大会<演芸部>
・木遣り道中、邦楽舞踏.洋楽舞踏(中央・東部・南部・北部の各花柳界の中心地にステージを設け、五日間芸妓総出動の演芸大会)
・素人のど自慢
・芸能行事他
・福引付全市一斉大売出し(市内660の商店が参加)
・遠州物産展示会・広告仮装行列・総合美術展・日本画・洋画展・華道展<商工祭部>
・物産展示会(松菱百貨店六階で織物や楽器を展示)
・広告行列(一日から二日間、広告仮装行列)・芸能大会
・景品付福引大売出し・浜松商店界連盟協賛大売出し
<農業祭部>
・農家各部落巡回演芸・福引付農家宝典の配布
・「浜松を讃える歌」歌詞募集
・商工祭撮影競技大会
・NHK中継放送・女性美写真展<宣伝部>
・アドバルーンの掲揚・浜松駅・遠鉄各駅の装飾・浜松駅前広告塔建設・ミス浜松発表会・ミス浜松披露会・ミス浜松写真展
・市内循環マラソン
・商工人野球大会
・実業団対抗珠算競技大会
・市内循環駅伝競争
・商工人野球大会
<その他>
・各町の出し物・打ち上げ花火(五社神社にて)など
出典:『浜松商工会議所百年史』より作成

 浜松まつりの三カ月前の昭和二十五年二月、商工会議所でまつりに関する市民会議があった。市長や商工会議所の副会頭、観光協会、婦人連盟、学校長会などの関係者が出席したが、寄付の強要、けんか、傷害、脅迫などの忌まわしい事件が頻発することへの批判が多かった。これに対して坂田市長は「市民の経済生活に即した無理のない祭りを行い、商店街も繁栄させなければらぬ」と答弁している(『静岡新聞』昭和二十五年二月二十三日付)。
 凧揚げ会場は砂に足を取られることもあった中田島海岸から戦前に使っていた和地山町の旧練兵場(今の和地山公園一帯)に移った。凧揚げには前年より九町多い五十一町、屋台は五十九町が参加したが、凧揚げは狭い会場だけに揚げる人々と観光客が入り乱れて混雑した。なお、まつり開始直前の四月二十六日に奥山線の東田町―曳馬野間の電化が完成し、凧揚げ会場最寄りの上池川駅は多くの利用客でにぎわった。
 まつり初日の五社神社拝礼はこの年も実施されたが、会場が戦前のように和地山町に戻ったにもかかわらず、五社神社神輿の凧揚げ会場への渡御や屋台行列の先頭にこの神輿が立つ習わしは復活しなかった。また、屋台の凧揚げ会場への集結もなかった。
 浜松まつりは先述のように多くの行事からなっていたが、凧や屋台以外に注目を集めたのは広告行列(広告カーニバル)であった。大企業は大型の自動車にいろいろな装飾を施したり、昔話の登場人物や動物などを大きく作って載せ、ヨーロッパや南米のカーニバルのような雰囲気を醸し出した。オートバイメーカーの社員が仮装してオートバイに乗って行進したり、個人(徒歩隊)で参加する部門もあり、昼間の中心部はこのカーニバルを見る観客でごった返し、祭りの期間中は市内が寂れるということはなかった。また、浜松物産展示会や木遣り道中も人気があった。このような総合的な祭りとなったため、市内はもちろん、弁天島や舘山寺の旅館までほとんど満員というにぎわいをもたらした。ただ、三日と五日が雨にたたられたため、商店の売り上げや交通機関は期待したほどのことはなかったようだが、映画館、料理店、飲食店は思わぬ繁盛ぶりとなった。また、祭りの出費として一カ町平均三十万円、参加町は延べ六十町、しめて千八百万円(寄付金)とまつり本部からの二百万円、また、各家庭レベルでざっと一千万円が費やされた(『静岡新聞』昭和二十五年五月八日付)。大金を投じた祭りが浜松の復興に果たした経済的効果は計り知れないものがあったと言えよう。
 しかし、この昭和二十五年の前半は不景気の最中でもあり、金詰まりの時代の祭りの寄付金集めは問題が多かった。東伊場町青年会の機関誌『まなび』は祭りの当事者である青年会のメンバーの投書を載せたが、それには毎月の積立方式がいいのではとの提起がなされている。また、参加者が青年や子どもたちに偏り、年配者の参加が少ない点も組織の欠陥ではないかという批判があった(『新編史料編五』 七社会史料103)。これらの議論が青年会機関誌で行われていることから、活発であった当時の青年運動の様子を垣間見ることが出来る。