[観光協会の設立と浜名湖の観光]

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【遠州観光協会 浜名湖夏祭 弁天神社祭礼 浜名湖県立公園 舘山寺観光協会 舘山寺開発組合 海の家 八木橋周助 浜名湖観光汽船 舘山寺航路 連絡運輸 浜名湖ホテル 浜松市観光協会 青葉延太郎 『Guide Hamamatsu』 観光案内所】
 昭和十一年(一九三六)に浜松観光協会ができ、浜松観光小唄を作ったり、遠州電気鉄道沿線や浜松鉄道沿線のハイキングコースを提案していた。また、十三年八月に日本交通公社(今のJTB)の浜松案内所が松菱百貨店の中にでき、観光案内や宿泊の手配などを開始した。しかし、日中戦争などの激化により、観光業は衰退していった。浜名湖の主要な観光地の一つである舘山寺の新堀に架かっていた舘山寺橋に検問所が出来たのは十九年のことであった。橋の北側にあった旅館街のすべては陸軍兵器行政本部の管轄下に入り、熱線吸着爆弾の研究開発施設となり、同時に浜名湖の北半分が同爆弾の実験水域となった。こうして、浜名湖の観光事業は見るべきものを失った。終戦後は軍に接収されていた舘山寺の旅館街は解放され、施設のあった所は小動物が飼育されるなどして小さな公園となり、観光に訪れる人も出てきた。
 昭和二十三年四月、遠州観光協会が結成され、浜名湖の県立公園化と天竜下りの復活を目指すことになった。同協会は二十四年七月に浜名湖夏祭を主催している。これは鷲津町の大黒祭、気賀町の祇園祭、大谷・大崎・佐久米・都筑の花火祭、舘山寺の灯籠流し、新居の関所まつり等の多彩な行事で、これに対し、遠州鉄道は船車連絡回遊券を発行し、舘山寺や鷲津、弁天島行きのバスを増発した(『静岡新聞』昭和二十四年七月十二日付)。また、同協会は一般から募集して選んだ遠州地方のハイキングコースを六コース決定し、宣伝に努めた。昭和二十四年には弁天神社祭礼の余興として花火の打ち上げが再開され、弁天島は多くの見物客でにぎわった。浜名湖周辺の市町村や観光業者などの努力が実って浜名湖は二十五年五月十一日に浜名湖県立公園となり、脚光を浴びることになった。湖岸の町村は夏の観光客誘致のため、観光協会や保勝会の設立に努め、六月時点で設立されたのは新居町観光協会、舘山寺観光協会、気賀保勝会、三ケ日保勝会、東浜名保勝会で、設立準備中のところは舞阪観光協会、鷲津観光協会、浜松市観光協会があった。県立公園指定から二カ月後の昭和二十五年七月、遠州鉄道は地元業者と協調して舘山寺開発組合を設立し、舘山寺海水浴場に海の家を開設した。海の家は遠州鉄道の取締役であった八木橋周助が所有していた別荘を利用し、夏季のみの営業であったが、大勢の利用客があった。これが後に舘山寺の大規模な観光開発を手掛けることになった遠州鉄道の舘山寺における初めての事業であった。
 明治時代から運航していた浜名湖の巡航船の会社は戦後間もなく浜名湖観光汽船株式会社となり、昭和二十五年の時刻表によれば鷲津港から入出航路と舘山寺航路の二つを運航していた。このうち舘山寺航路は大崎や佐久米を経由して舘山寺港まで一時間二十分、美しい浜名湖を眺めながらの船旅で、多くの観光客を喜ばせた。また、七、八月は鷲津港から舘山寺港行と弁天島と舘山寺を結ぶ航路も開設された。なお、国鉄と連絡運輸を行い、連絡駅は鷲津駅であった。湖岸の道路が整備されていなかった昭和三十年代までは浜名湖観光汽船が浜名湖観光に果たす役割は極めて大きかった。戦前の昭和十一年(一九三六)、外国人観光客を目当てに弁天島に建設された豪華な浜名湖ホテルは戦争の拡大に伴ってわずか二年で閉業、戦後に再開が期待されたが、経営は困難とのことで放置され、三十二年に箱根の芦ノ湖畔に移築され、今日に至っている。
 昭和二十六年三月十二日に浜松市観光協会が創立総会を開き、戦後浜松の観光事業が大きく進展することとなった。初代会長には坂田浜松市長が就任、副会長の一人は遠鉄の青葉延太郎社長であった。同会は観光地や地方物産の宣伝や紹介、斡旋などのほか、観光文化に関する刊行物の発刊など極めて多くの事業をするようになった。浜松市としても観光地の宣伝を始め、このころ『Guide Hamamatsu』と題した観光パンフレットを作成した。これには市街地の観光案内図や根上がり松、佐鳴湖の写真、特産品として織物、織機、ミシン、帽子、ピアノ、オートバイの写真やイラストが掲載されていた。なお、浜松駅の降車口近くに浜松観光協会の観光案内所が出来たのはこれよりずっと後の昭和二十九年のことで、その開設の遅さには批判も出たという(『新編史料編五』 七社会 史料113)。