【戦災市民慰安無料公演 復興祭 農繁休慰安会 演劇クラブ(部) レコードコンサート 素人演劇 鴨江観音の彼岸会】
空襲の激化により市民の娯楽はほとんどなくなり、あらゆる点で窮乏生活が続いていた。終戦を迎えても苦しさには変わりはなかったが、市内では戦災市民への慰安会が警察署、市、警防団の主催で開催された。終戦からわずか一カ月半の昭和二十年九月に中沢町の日本楽器で、十月には蒲神明宮で〝戦災市民慰安無料公演〟として行われた。このうち、九月三十日の公演は午前、午後の二回、東京移動劇団による「妻恋道中」や「新らしき発足」と題した芝居が上演された。また、二十一年十月、国鉄浜松工機部と工機部労組の共催で復興祭が行われ、職員有志による演芸会、相撲大会、仮装大会が行われ、書道・絵画の展覧会、福引きやおでんの模擬店も出た。昼食には甘藷、成年男子には酒二合、未成年者と女子にはようかんが支給された。都田村青年団では二十二年に浜松から山田ヨシローとその楽団を招聘し、都田小学校で農繁休慰安会を盛大に催した。なお、昭和二十年代には日本楽器本社労組や浜松工機部労組など市内の主な労組には演劇クラブ(部)があり、いろいろな大会に出演したり各地に出向いて公演していた。詳しくは第九節文化 第七項を参照されたい。昭和二十四年一月、三方原青年連盟は開拓地内の分教場(三方原小学校東分教場)で柏木保健婦との懇談の後、レコードコンサートを行っている。このように昭和二十年代、特にその前半は各地でレコードなどの鑑賞会や組合員や青年団の素人演劇が盛んであった。しかし、その後、映画熱が高まっていく中で演劇への関心は薄らいでいった。
年中行事の復活で興味深い事例は鴨江観音の彼岸会である。鴨江寺は昭和二十年六月十八日の空襲により全寺域のほとんどが焦土と化した。しかし、焼け残った弁天堂を本堂跡に移築し、疎開していた本尊をここに迎え、また、掘っ立て小屋程度の参拝所も建築して、九月には彼岸会を実施したのである。見世物小屋や露天商の数は少なかったが、戦没将兵の家族や空爆犠牲者の一門の参詣が見られ、にぎわいをみせた。それから三年後の二十三年秋の彼岸会、その中日には金詰まりにもかかわらず伝馬町四つ辻から鴨江観音までの沿道は人波で埋まり、人出はざっと十万人、浜松駅の乗降客は平日よりも一万二千人も多かった。これらから三年間の浜松の復興ぶりがうかがえる。それぞれの地域の祭りも昭和二十一年ごろから町村の祭り組織や青年団などによって再開されていったようだ。