【パチンコ屋 パチンコ横町】
パチンコは二十世紀初頭に欧州で大流行したゲーム機「ウォールマシン」が日本で改良されたとの説がある。日本では昭和初期に誕生したようだが、太平洋戦争の激化で禁止された。戦後の昭和二十一年には早くも名古屋にパチンコ店が出来たが、正村竹一が釘の並びを工夫し、さらに風車を付け、どの穴に入っても十個の玉を出す台を二十三年に完成、翌年から発売すると全国に爆発的に広まった。二十五年十二月十五日の『静岡新聞』によれば、浜松にはすでに百三十軒のパチンコ屋があり、特に鍛冶町の松菱の東と棒屋百貨店横の小路にはパチンコ屋がずらりと軒を並べ、パチンコ横町の観を呈していたことが分かる。このころになると大衆娯楽の王座を誇っていた映画を追い越すほどの人気で、早朝から深夜まで客足が絶えず、その大半は青少年であった。パチンコは一種の賭博行為でもあり、この資金を得るために中学生までもが盗みに入ったり、パチンコ屋の前に停めてある自転車の窃盗などが多発するようになった。パチンコ屋は浜松だけでなく、浜名郡の町村部まで〝氾濫〟、その総台数は約二千台を数え、小中学生までもがこれにかかわるようになった。このため、教員が毎夜交代で見張るという事態も起こった。また、パチンコ屋が景品のたばこを未成年者にも渡すこともあり、青少年の間に喫煙が広まり問題となった。昭和二十六年正月には市内のパチンコ屋は百五十余軒となり、店内はお客であふれ、二時間も待たないと自分の番が回ってこないほどの人気となった。