[浜松こども博覧会と浜松市動物園]

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【浜松こども博覧会 科学博物館 象のいる動物園 観覧車 テレビ、ラジオ館 テレビの公開実験 浜子 浜松市動物園 空中ケーブル】
 昭和二十五年になると、浜松市の戦後復興にほぼめどが付き、市民の生活にもややゆとりが感じられるようになった。学校の制服を購入できる家庭も次第に増え、児童・生徒の履物もわら草履や下駄からズック靴に変わりつつあった。この昭和二十五年、浜松市は復興の成就と市制四十周年を記念して九月十日から十月二十日までの四十一日間にわたって浜松こども博覧会を開催した。静岡県や静岡県教育委員会、国鉄の後援の下、五千万円の経費を投じ、広さ三万五千坪の浜松城公園と隣接地を会場として開かれた。この浜松こども博覧会は、成人はもちろん、特に青少年児童の科学的知識の涵養、体育の高揚、生活の文化向上並びに産業の振興を目的としていた。
 この博覧会の計画は昭和二十五年四月、白井助役ほか数名が名古屋の東山公園で開催中の子どもの天国名古屋博覧会を視察し、浜松においても経営可能かどうか検討した結果、六月になって開催が決まったのである。七月下旬から本格的な準備に着手し、八月からは突貫工事で開催に間に合わせた。浜松駅前には子ども二人を背中に乗せた等身大の象が地球儀にまたがり電気仕掛けでくるくる回る巨大な宣伝塔が登場し、こども博の宣伝に努めた。
 会場には巨大な科学博物館(こども博のメイン会場で、専売局の巻煙草製造機など最新の機械を展示)、電気通信館、テレビ、ラジオ館、発明館、天体観測所、こども物産館、郷土館、動物園(こども博の目玉・象のいる動物園、会場内の動物園には象の形をしたアーチをくぐって入った。)、ジャングル館、水産館、展望所(浜松城の模型)、フェアリーランド(夢の国)、ロータリーチェアー、こども遊園地、野外ステージ、観覧車など数多くの施設がつくられた。このうち観覧車は「浜松こども博案内」によれば「上に昇つてゆくときは心も空へあがります。下へさがつて行くときは足が地面へ吸はれます。上つて下つてクル〓とこども博までゆれうごく。」と記されていた。浜松の子どもたちが初めて乗った観覧車であった。テレビ、ラジオ館ではまだ日本では放送されていなかったテレビの公開実験が行われた。子ども博の会場内の風景や野外ステージでの催し物の様子をカメラで撮影し、展示室の受像機に映し出したのである。多くの市民はこの時が初めて見るテレビで、大変な評判となり、連日見物人でにぎわった。このテレビの公開実験は静岡大学工学部の電子工学研究施設とNHK浜松放送局の協力で行われた。
 浜松こども博覧会の目玉はなんといっても子どもたちに人気のある象であった。浜松のこども博のパンフレット(『新編史料編五』 七社会 史料104)には「東京、名古屋の間で象のいる動物園がはじめて浜松に出来ました。」と書かれている。象は昭和二十五年九月十二日にタイから門司港に着き、浜松にはお彼岸のころ来るということで、タイ国生まれの七歳のメス象に名前を付けるための懸賞募集が八月に始まった。応募資格は小学生と中学生、ハマ子、タイ子、マツ子の順で多かったが、井伊谷中学校一年生の内山八重子さんの「浜子」が一等に当選した。象が博覧会の会場に入った日の九月二十三日、二万人の観客を前に象舎で内山さんが「待ちに待つた象の名を今日から浜子さんと名付けます」と宣告した。当時市内の学校ではこども博覧会の見学が学校行事として位置付けられ、科学・文化・体育・産業の生きた学習の場ともなった。このころ、浜名教職員組合(浜名郡教職員組合)教育部が編集した文集の『遠州の子ども』五・六年(昭和二十五年十月号)には、こども博について「私達は、二度と来ない博らん会をどんなかまえで見たらよいのでしょうか。」として見学のポイントを数多く示した。この博覧会は県内各地の子どもたちにも反響を呼び、十月八日には静岡から親子八百人を乗せた貸切の親子列車が運転されるほどであった。また、浜松市の要請でNHKの人気番組「二十の扉」が浜松市公会堂で開催され、全国中継された。このように市当局はもちろん、教育界や婦人連盟、国鉄などの協力により入場人員は予定を十万人も上回る三十一万二千二百五十三人に達した。同年七月の浜松市の人口が十五万一千五百人ほどであり、人口の約二倍もの入場者を数えたことになる。
 浜松こども博覧会の会期の終了後、会場のほとんどは動物園となり、同年十一月一日に浜松市動物園となった。このように復興記念でこども博を開催し、閉幕後に動物園を開園させる段取りは同年秋に小田原市が開催した小田原こども文化博覧会とよく似ている。タイ国からの象の輸入も同じである(木下直之『私の城下町 天守閣が見える戦後の日本』)。
 戦後、象は平和の使者として歓迎され、特に昭和二十四年九月にインドのネルー首相から上野動物園に贈られたインディラは大勢の子どもたちの人気の的となった。それ以来、各地の都市では〝象のいる動物園〟が熱望されていた。浜松市動物園の「浜子」はラッパ吹きや鈴ふり、乱杭渡りなど十数種の芸を覚え、子どもたちに圧倒的人気を博した。この初代浜子は六年後に東山動物園を経て、大阪府のみさき公園自然動物園にもらわれていった。代わりにやってきた二代目の象も「浜子」と呼ばれ人気者となった。初代浜子に遅れること一年、ライオン一つがいが入園、「浜男」と「松子」と命名された。この年にはマントヒヒ、ニシキヘビ、ダチョウなどが入園し、翌年にはヒョウ、フラミンゴ、カンガルーなども入って動物園は一層のにぎわいを見せた。なお、ライオンの子どもには「市子」の名が付けられ、親子の名前の頭の字は「浜松市」となった。
 浜松こども博覧会の時に展望所となった浜松城天守閣跡には模型の浜松城がつくられた。ここは間淵家の私有地で、後に中日本観光株式会社が買収し、天守閣跡と動物園の間に空中ケーブル(ロープウェー)が出来たのは昭和二十八年であった。これは三十一年に市営となり、二年後にはここに浜松城が建設されることになるのである。
 昭和二十五年は浜松市営プール(元城プール)が完成、古橋選手も参加しての日米交歓水上大会の開催、そして、浜松こども博覧会の開催、さらに十一月には浜松市立図書館の開館と続き、明るい話題が多く、戦後浜松の復興を印象付けた年であった。