浜松市立中央図書館が編集した『浜松市戦災史資料』四(平成十一年三月刊、毛利節夫館長)には、「主要罹災建造物」の項目に、「一、官公署」、「二、学校」、「三、神社・仏閣」に並んで、病院及び医院の名称が網羅されている。これによれば罹災した建造物官公署の中に静岡県浜松保健所・静岡県浜松保健出張所・静岡県浜松健康相談所が含まれており、病院・医院としては六十四カ所と、歯科医院の四十七カ所、合計百十一カ所の名称が列挙されている。
前者の六十四の病院・医院のうち、特に防空救護所や治療所に指定されていた病院で全焼したのは次の十三カ所である。一貫堂病院(名残町)、堀野病院(元城町)、富田病院(千歳町)、谷口病院(板屋町)、園田病院(元目町)、村尾病院(常盤町)、内田病院(田町)、山本病院(元城町)、山田病院(元城町)、佐藤病院(東田町)、矢部病院(田町)、遠州病院(常盤町)、東洋紡績浜松工場病院(ママ)(東伊場町)。
他方、静岡県医師会浜松支部に所属する市内在住の支部会員は百三十五名であるが、そのうち昭和二十年二月十五日、四月三十日、五月十九日の空襲で四十名が罹災し、六月十八日の空襲では七十六名が罹災した。この四回の空襲によって合わせて百十六名が罹災している。残った診療所は十カ所で、医療従事者は十九名に過ぎなかったが、その後の昭和二十二年二月現在では復興著しく、百三名の開業医を数えるに至った。
また、静岡県歯科医師会浜松支部の戦前の会員は六十八名いたが、戦時色が濃くなるとともに他地域への転居者が増え、かつ、六月十八日の空襲によって四十七名の罹災者を見るに及んで診療休止に近い状態に追い込まれた。戦後の昭和二十二年二月現在では診療所開設が三十九カ所、診療従事者が四十二名を数えるに至った。
なお前掲書には戦前の産婆、看護婦、五つの看護婦会(浜松・東洋・遠江・共立・昭和)の活動についての記事があり、戦後には産婆二十名が営業し、三つの看護婦会(浜松・遠江・共立)が営業を再開したことに言及している。
先には六十四カ所の罹災診療機関について言及したが、それには遠州病院・日本楽器診療所・済生会浜松診療所・東洋紡績付属診療所(ママ)という大規模病院が挙げられている。このほかにも浜松市内には、①市立浜松病院(鴨江町)、②浜松診療所(中沢町)、③浜松市健民館(板屋町)が挙げられている。
①は主として伝染病患者の収容治療に当たり、空襲や艦砲射撃による被害はあったが、応急工事によって患者の収容と治療には差し支えなかった。②の戦災被害は軽微であった。③は市民の保健衛生全般の指導を果たし、市民の健康相談や乳幼児の栄養指導と疾病予防、また妊産婦の健康診断に尽力してきたが、六月十八日の空襲によって建物は全焼した。これによりこれらの業務のうち一部は浜松保健所が引き受けている。