[空襲被害者の治療]

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 『浜松市戦災史資料』(平成七年九月刊、小野田吉宏館長)は戦後五十周年記念事業として、壊滅的な被害を受けた浜松市民の歴史について明らかにするために編集されたものである。ここには次の四点の史料が収録されている。
 ①国民学校をはじめとする当時浜松市内にあった各学校からの指定書式による提出記録。②「浜松市空襲状況」。③「管内昭和二十年六月十八日戦災対策概況」(昭和二十年七月三日現在の静岡県西遠地方事務所による総括)。④「川上嘉市戦災歌集」。
 ①では、防空対策と空襲直後に被害者が出た場合には、どのように処置するかという記載がある。例えば、追分国民学校では「応急処置」を施した後に、救護所が設けられている三社神社境内と一貫堂病院(名残町)へ運ぶとしている。昭和二十年四月三十日の空襲で蒲国民学校には爆弾が落下、弾丸の破片が待避壕中にいた女教員一名の脚部を貫通、このため教員を遠州病院に送って治療した。佐藤国民学校では高柳春吉校長が奉安殿前に落ちた爆弾の破片を被弾して谷口病院(板屋町)へ運ばれたが絶命した。文字通り奉安殿死守の象徴であった。浜松商業学校では五月十九日の空襲によって職員一名・生徒十名の死者があり、生徒の負傷者十三名を出している。死者は校長室に安置したが、負傷者は陸軍病院へ運んでいる。淑徳女子商業学校(平田(なめだ)町)では、昭和十七年度以来毎年、陸軍病院衛生部員や看護婦等による救護処置の指導を受けていた。また、同校では同二十年五月十九日の空襲の際に学徒動員先の鈴木式織機株式会社の相生町の工場で死者十九名(教員一・生徒十八)、負傷者三名の被害者があった。
 他方、誠心高等女学校(松城町)では昭和十九年十二月七日に発生した東南海地震の時、学徒動員先の鈴木式織機株式会社高塚工場で、死者三名、負傷者三名の被害者があり、負傷者は山田病院へ運んでいる。なお、右の一貫堂・遠州・谷口・山田の四病院は先に見たように指定救護病院であり、後に全焼した。
 次に③の「管内昭和二十年六月十八日戦災対策概況」には、昭和二十年七月現在の状況が述べられているが、その内の「戦災対策静岡県本部の設置」という項目には、西遠地方事務所仮事務所に浜松警察署・浜松市役所の関係者を集め戦災対策静岡県本部が設置されたことと、そこでの実質七回(六月十八日、十九日、二十日、二十一日、二十二日―中止、二十三日、二十四日、二十九日)にわたる協議事項の詳細とが記録されている。
 第一回の六月十八日には、医療関係として、六カ所の治療救護所と、八カ所の患者収容所(城北国民学校・曳馬国民学校・日本赤十字社静岡県支部浜松病院・中部配電株式会社浜松営業所・八幡国民学校・鴨江国民学校・西遠高等女学校・浜松陸軍病院)が指定されている。衛生材料の現状は「ガーゼ 包帯 一応間に合う」、「綿花及火傷油 不足」と報告されている。第六回に相当する六月二十四日の会議では、市役所からの要望事項として、医師の所在及び分布情況の調査と、患者収容所である鴨江国民学校に看護婦三人・助産婦二人を必要としている。第七回に相当する六月二十九日の会議では、市役所からの報告事項として、六月初旬に赤痢が発生し、三十七名を隔離病舎に収容したが、自宅療養の者もいるらしいこと、便所消毒のクレゾールが不足していること、市内(松菱)に市の総合病院建設を医師会が検討中であることを報じている。