『浜松市戦災史資料』に収められた「浜松市空襲状況」には、六月十八日こそが「わが浜松市の徹底的潰滅の日」と記し、阿鼻叫喚、焦熱地獄の状況を記している。また、『浜松市戦災史資料』二(平成九年二月二十八日刊)には、「浜松市空襲被害一覧表(町別)」を収載している。
この一覧表は昭和十九年十二月十三日から同二十年八月一日までの二十七回の空襲被害状況を示し、その内容として、弾種概数、死傷(死亡、重傷・軽傷)、建築物倒壊(住家・非住家別の全壊・半壊・小破)、建築物焼失(住家・非住家別の全焼・半焼)を町別に一覧表にしている。このうちの死傷者に限ってみると、死亡者数は二千九百四十七名であり、重傷者は七百七十一名、軽傷者は九百三十一名。
右にいう「六月十八日」に限ってみると、鴨江町以下海老塚町までの七十二町が挙げられているが、死傷者の記事がない瓜内町・旅籠町・相生町・向宿町・富塚町・追分町・早出町・十軒町を除いて、死亡者千百五十七名・重傷者二百五十名・軽傷者百八十一名という。なお、「六月十八日」の浜松大空襲の被災状況の詳細については既刊の『浜松市史』三(昭和五十五年三月刊)に拠られたい。
ところで敗戦後の大空襲十周年目の当日の『静岡新聞』(昭和三十年六月十八日付)には、被害地区九十九カ町、即死者四百五十六名、重軽傷者は数知れず、住家全壊一千八百戸、半壊三千四百二十三戸、小破二千九百八十戸、全焼一万八千九百六十二戸、半焼三百七十八戸(非住家は二千百四十二戸)という数値を挙げた記事が出た。この記事内容について右の「浜松市空襲被害一覧表(町別)」の合計数値と比較検討すると、即死者四百五十六名とは、新聞記事の明らかな誤記であることがわかる。また、住家の建築物倒壊と建築物焼失とでは数値を個別に挙げてはいるが、非住家の数値は倒壊と焼失の数値を合計したものであり、均衡を欠いた新聞記事となっていることに注意を要する。