また、昭和二十年十二月一日には、浜松陸軍病院(和合町)が厚生省医務局の管轄下で国立浜松病院として発足した。この病院は国立療養所天竜荘(磐田郡二俣町)とともに従来は傷痍軍人のみを収容してきたものであり、特に陸軍病院は戦時中、浜松大空襲時における八カ所の患者収容所の一つとして機能し、いわゆる民間人と呼ばれた市民の患者を収容してきた。終戦に伴い同二十一年五月十八日の『静岡新聞』記事には、この国立浜松病院と天竜荘は同様に、入院費は有料として一般の患者に開放し、診療を行うようになったと報じている。
この発足間もない国立浜松病院の実情に迫る見学記がある。それは北部中学校の『北中タイムス』第一号(昭和二十二年八月十日付)に掲載された尾崎康(一年生、新聞部員)による記事である。実に簡潔にこの病院の使命、衛生施設、職員構成、医師国家試験前の実地研修病院、看護婦教育、外来患者、入院患者、伝染病治療、細菌検査、病理検査等の組織と機能の一端を伝えている。そのうちの職員構成は医師十一名、看護婦三十五名、看護婦養成所生徒三十一名、事務員等が五十名と記されている。
特にここの前身が傷痍軍人を治療する陸軍病院であったことを背景にすれば、患者の病歴と治療法を指摘する記事は鋭い。すなわち、一つには入院患者総数の三百四十五名のうち、一般の入院患者百四十名であり、これ以外が復員と引き揚げの患者であるという点。二つには、義眼・義手・義足等の着装は出来ないので、東京第一・岐阜・相模の各国立病院へ移しているという指摘である。
新発足した病院の外来患者は一日に百名、年間で約四万二千名と記している。戦後の様々な原因から発生する伝染病の病種の多様さと罹患者の増大によって、国立浜松病院も伝染病患者を治療することになるが、その治療実態を伝えるという記事がある。
この後の国立浜松病院はこの存続を賭けて、幾多の問題に直面することになる。この背景には市立総合病院設立問題が潜在している。また病院機構としては戦後の社会情勢を示すような職員組合の結成問題(昭和二十一年十一月)、患者自治会結成問題(昭和二十二年二月)、結核専門病院転換問題(昭和二十八年三月)、市立病院案の諾否(昭和三十三年一月)等である。