遠州病院

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【静岡県厚生農業協同組合連合会 厚生連】
 遠州病院の成立事情については、既刊『新編史料編四』の八医療 史料15「遠州病院と浜松医療利用組合」の解説において述べたので参照されたい。
 戦後の昭和二十一年一月十日付『静岡新聞』には、「医療の貧困」という標題で、浜松市の医療行政における問題点が挙げられている。しかし、敗戦直後の市当局にとって、民政の安定化をはかるための多方面の諸政策が焦眉の急であったろうから、市政への期待から生ずる観点の置き方によっては迅速と緩慢、厚薄という評価が分極化する可能性があろう。
 記事では建築資材の入手難によって病院復興が遅れていること、医師会側による新規開業医の進出阻害の傾向があること、市当局の医療施設に対する積極的施策が欠如していることを指摘するのである。医師会側の動向についての具体的な記述は無いが、建築資材としての旧陸軍の建物払い下げに絡む遠州病院の復興計画と、市側の対応のまずさを指摘している。
 遠州病院は三方原村にある旧九十七部隊の建物の払い下げを市当局に申請したが返事が無く、建築資材の入手難と相まって、市当局の消極性を問題視した批判が右の記事である。二月には早くも仮診療所を建てているが、先の記事がきっかけであろうか、遠州病院は昭和二十一年九月十五日、旧陸軍病院の建物の払い下げを受け、木造平屋二棟を建築して病院復興の第一歩となった。
 その後も翌二十二年四月には旧陸軍病院の建物の払い下げを受け、木造平屋の病棟一棟が完成し、百三病床を備えるようになり、昭和二十四年には看護婦宿舎と炊事場などを備えている。
 もっとも、遠州病院の経営母体については経済状況の変化を被っていた。すなわち、昭和二十三年に農業会に代わって市町村に農業協同組合が結成され、この連合会の一つとして静岡県厚生農業協同組合連合会(厚生連)が同年八月に設立され、この厚生連の事業として遠州病院(常盤町)の医療活動が始まったのである。疾病の治療と予防、保健衛生の啓蒙活動、医療従事者の教育養成などにおいて、西遠地区の基幹病院としての社会的機能を果たすことになる。
 その一端は農村医療と保健の分野において、遠州病院が右の厚生連の管轄下にある病院の特性を生かして、医師派遣や技術面で協力している。
 ただし、遠州病院と浜松市医師会との関係は恒常的な友好状態とは言えず、時に対立関係が起きることもあった。昭和二十五年三月、新聞紙上をにぎわせた事件は遠州病院長が起こした舌禍事件である。講演の題目は「公共病院について」であったが、遠州病院の自画自賛論に医師会が反発したものであるらしい。医師会は大上段に医療法第三十九条と浜松市医師会定款第十条に抵触する可能性を指摘した。医師会長は医師会は利権団体でもなければ商業組合でもない、民衆の福利増進と公衆衛生に寄与するものであると声明を出している。
 遠州病院における戦後復興の一応の決着は、払い下げ病棟から脱して新しく医療機器を備えた本館(二階建・四百二十五坪・百三十病床)を完成させた昭和二十五年十一月二十八日の時点であろう(『遠州総合病院50周年記念誌』)。