浜松保健所

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 『浜松市戦災史資料』二によれば、静岡県浜松保健所は昭和十四年八月二十四日に市内下池川町に新築(木造二階建・百五十五坪余)され、所長以下七名の職員で構成されていた。これは同二十年四月三十日、五月十九日、六月十八日の空襲で焼失した。一部の器具等は磐田郡富岡村農業会建物に疎開して、仮事務所を市内上池川町の民家を借用して設営したが、六月二十五日に富岡村農業会の一部を借用して仮事務所を開設した。
 しかし戦後になって、富岡村は保健所管内(浜松市・浜名郡・磐田郡・引佐郡)の疾病予防や保健指導の日常業務の遂行に当たっては、あまりにも不便の地である故に、市内上池川町に移った。『静岡新聞』(昭和二十一年四月十八日付)には、近く市内へ移動する案内記事がある。ただし、移転先の候補地として県立鴨江病院跡に新築移転するとあるが、実際は市内高町の西遠地方事務所跡である。
 昭和二十二年四月、新居にあった元浜名海兵団兵舎の払い下げを受けて建築された庁舎に、西遠地方事務所や県食糧検査所西遠支部とともに移った。その後に鴨江町の鴨江病院跡に独立した庁舎が建築され、同二十五年十月三十一日より業務を開始した。
 この後、市勢の展開とともに町村合併が行われ、市域の拡大を前提とした住民の日常生活にかかわる諸問題に直面する。すなわち、衣食住における環境と衛生、疾病予防、母性と乳幼児の健康維持増進などである。戦後のこの時点での保健所の課題は、結核予防と治療であった。
 例えば、この観点を含めて昭和三十一年度の浜松保健所では無医地区への巡回診療地区として、三方原開拓地区や浜松開拓地区を対象に二回の巡回診療があった(土屋重朗『静岡県医療衛生史』)。