【聖隷保養農園 接収案拒絶】
昭和十二年(一九三七)四月に結核予防法が改正され、同十四年四月に厚生省傷兵保護院所管の結核療養所を浜名郡赤佐村於呂に起工。十五年には軍事保養院所管の国立結核療養所天竜荘となった。第一期工事三百床。昭和十六年三月に第二期工事で二百床増床され五百床。同十七年十一月に傷痍軍人療養所天竜荘と名称変更。同十九年二月に第三期工事でさらに三百床増床されて八百床となっている。一方、静岡県でも同じく浜名郡赤佐村に県立結核療養所を設立した。
他方、昭和十四年四月二十八日には皇后陛下令旨があり、これに基づく官民一体の財団法人結核予防会が創設された。それは結核研究所の設置、予防策の調査研究、予防思想の普及、患者の生活指導、予防職員の養成を業務とした。
その後、戦争拡大に伴い昭和十八年には日本医療団を組織し、結核療養所の拡張策があった。日本医療団静岡県支部では現存の三療養所の接収案を策定した。静岡市立療養所百床・県立結核療養所百二十床・聖隷保養農園九十床、計三百十床を千六百床に拡張する案である。同十八年八月には県立結核療養所を浜園名荘と改称し、四百八十床の増床で計六百床としている。しかし、聖隷保養農園(昭和十二年の命名)はこの接収案を拒絶した。