[聖隷保養農園付属病院]

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【聖隷保養農園 渡邊兼四郎 聖隷保養農園付属病院】
 聖隷保養農園の成立経緯については既刊『新編史料編四』 八医療の史料3「ベテルホームと聖隷保養農園」を取り上げ、昭和十二年時点で聖隷保養農園が置かれた状況を述べたが、結核を忌む地域住民からの幾多の迫害があり、長谷川保は聖隷保養農園の閉鎖を決意するに至っている。ところがその迫害が終息して医療活動に起死回生の劇的な好転をもたらしたのは、同十四年十二月二十五日、天皇陛下下賜金の拝領一件である。
 つまり、聖戦遂行のための兵士確保を前提とする国策、結核対策が必至となっており、昭和十四年四月二十八日の皇后令旨が貫徹したからであろう。同十五年には聖隷保養農園に付属する内科医院の設立が認可され、患者八十名を収容した。同十七年には聖隷保養農園は財団法人(初代理事長渡邊兼四郎)の認可を受けて付属病院(初代院長平野清彦)を設立した。
 すでに早く昭和六年には市内東田町の開業医にして非常勤の勤務医である渡邊兼四郎から病棟寄付(六室)の援助を受け、同十一年には賀川豊彦の提唱(一坪献金)による全国からの寄付金によって土地購入が実現していたが、同十八年には企業による寄付病棟が完成して栄光館、日楽館が生まれ、同十九年には三省寮(職員宿舎)が完成している。このようにして先述した国の結核対策に基づく県下の病院拡張方針に従いながらも、日本医療団静岡県支部から提示された接収案を拒絶するまでに至ったものである。
 その後の聖隷保養農園付属病院には結核病棟の増築が進み、昭和二十四年には、日本楽器川上社長の寄贈による新恵風寮が、翌年には恵泉寮、富士紡績の寄贈による富士紡館などが完成している。
 なお、ここでの療養生活の一端は、見舞客の日記(鈴木良「教育残念記」昭和二十一年十一月十七日条)にも見える。「夜中も一方の窓だけは半ば開けたまゝやすむ」という大気・安静・栄養という療法の静寂な環境が述べられている。『毎日新聞』(昭和二十三年十一月十三日付)には患者百十三、看護婦二十三名、農場三町七反を擁す保養農園に、レントゲン機械が導入され、同年十二月の外科病棟の完成(予定)とともに都築正男による外科手術が期待されていることを報じている。