[結核予防の実践運動]

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【結核予防 無料診察所の開設 結核予防法 公費負担】
 『新編史料編五』 八医療の史料7は戦後の結核予防の原点を示す重要な史料である。それは浜松市長が昭和二十一年九月十九日付で町内会長あてに発した通知で、結核感染者の増加について警鐘を鳴らし、その予防実践週間を設定したこと、その期間中に「鍛冶町松菱百貨店二階に臨時無料診察所」を開設したことを述べ、併せて結核予防実践事項を広報している。後者の予防事項(八項目)は日常生活における衛生観念と公衆衛生にかかわる細目である。特に前者の無料診察所の開設を浜松市の医療行政として実施したことは注目される。もっともこの昭和二十一年七月には市長は町内会長を介して国立病院による引揚者への無料治療を周知させたり、広範囲な浜松市周辺地域に住む復員者・引揚者・戦災者への無料巡回診察を実施するなど、民心安定を図るための緊急性を帯びていた時期である。その一つの現れが同二十一年十月、市長は警察権力を行使してまでも、棄唾(きだ)・喀痰(かくたん)を取り締まることを町内会長をして市民に通達している(上村家文書「重要通知書綴」)。
 結核が亡国病と言われた戦前の大正八年三月二十七日に結核予防法が制定されたのであるが、戦後に依然として有効であるこの時点で期間限定とはいえ、公費負担による治療を打ち出したのである。後の昭和二十六年三月三十一日制定の改正された結核予防法において、初めて公費負担制が法制化されるのであり、その先駆けと言える。
 これに至るまでにはGHQによる昭和二十年九月の結核患者対策(検診・隔離・入院・BCG接種)の徹底化がある。同二十一年十一月十四日付で結核予防接種を実施するために、市長代理白井信一は町内会長にあて町内の十一歳から二十歳までの青少年の男女別・年齢別人数を調査報告せしめた。ただし除外例は、市内各学校在学者と企業従業員(東洋紡績・日本楽器・石川鉄工・浅野重工業・日本楽器天竜工場・遠州織機・鈴木式織機・官立鉄道)の場合である。その翌十二月には日割表に従って「指定注射場に出頭」せしめているのである。
 そして昭和二十二年の結核対策強化(結核予防組織・療養所の整備強化・結核啓蒙)等の勧告があり、同二十二年には伝染病の届出制度が改められ、結核患者の届出が義務付けられている。