[伝染病の猖獗(しょうけつ)]

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【予防接種 シラミ 発疹チフス DDT撒布 ノミ 南京虫 伝染病 ボーフラ 隔離病舎 湖東伝染病院】
 浜松市における伝染病予防の行政措置をみると、昭和二十一年九月五日付で「内服薬ワクチン配布に就て」として、腸チフスと赤痢の内服ワクチンを「一人分七十銭、大人小人同ジ」で希望者に配布すると通知し、同年九月十一日付で「ヂフテリヤ予防接種に就て」として、「予防接種を受ける該当者(九月一日現在生後九ヶ月より七歳に至る小児全員、但し国民学校入学中のものは除く)」の調査依頼を町内会長に通達している。また、同年九月十四日付でコレラ予防の注射(二回)を徹底するように令達している(上村家文書「重要通知書綴」)。
 他方、年紀不明であるが、戦後の衛生施設の焼失と非衛生的生活による悪疫の流行を憂い、「浜松市公衆衛生組合加入」を勧誘するパンフレットによれば、「衛生的文化都市浜松を建設」のために浜松市の衛生行政の一翼を担う浜松市公衆衛生組合の結成があった。これは「市と不離一体の関係にある市民」の援助による「民主的な組織」を目指すものであった(船越町自治会文書)。
 昭和二十三年に予防接種法が制定され、種痘・腸チフス・パラチフス・ジフテリア・百日咳・BCGの予防接種に加えて、発疹チフス・コレラ・ペスト・猩紅熱・インフルエンザ・ワイル病が義務化の対象となり、その実施は地元医師会に委ねられた。
 もっとも、先の伝染病届出規則の対象疾患は麻疹・百日咳・流行性感冒・黄熱・破傷風・肺炎・産褥熱・狂犬病・炭疽・鼻疽・結核・癩・トラホームの十三種であるが、日本ではほとんど発生を見ない疾患(黄熱・炭疽・鼻疽)も含まれており、また、隔離規定もないことから届出の実効性があったとは見られていない(土屋重朗『静岡県医療衛生史』)。
 前掲『静岡県医療衛生史』には県下の伝染病発生状況が詳述されているが、『静岡新聞』には浜松市とその周辺地域の患者発生状況が克明に報道されている。戦後の患者発生状況の記事は前年比で書かれることが多く、通観すると一進一退の状況である。次に新聞記事上で注目されるところを見よう。
 発疹パラチフスをもたらすシラミは戦前の生活に密着していて、その成長過程につれて四回も呼称が変わる方言さえある(新潟県北魚沼郡、金田一春彦『ことばの歳時記』)。さすがに遠州地方にはこのような方言はなさそうであるが、実態としてはシラミが住民を悩ましていたかが推測されよう。
 しかし、敗戦直後の『静岡新聞』の報道には昭和二十年の赤痢に続いて、同二十一年には伝染病猖獗の兆しのあることを報じ、同二十二年二月十五日付には、昭和二十二年一月以来浜松市と浜名郡で発生した発疹チフス患者は県下の約四割を占めたことを受けて、県下で初めて浜松市が防疫本部を設置したことを報じている。診療班・防疫監視班・薬剤班・情報宣伝班を結成し、全市の戸別的大消毒を企画した。市民には注意事項(九項目)を通達している。特にシラミの駆除と衣類の管理方法を教え、アタマジラミの駆除には「石油を浸した漉櫛でよく漉いた後、髪を洗いなさい」という。
 また、昭和二十五年二月二十四日付の記事では浜松市衛生課が浜松駅前の海外引揚げ事務所と田町本通りの二カ所にDDT無料撒布所を常置したこと、一般の利用を望んでいることを報じている。
 DDTの撒布が劇的にシラミ駆除に効果を上げたことはよく知られている。例えば半藤一利著『昭和史戦後編』(講義録の活字化)には「戦後の日本人は体じゅうにノミがいるというか、家にもノミとシラミと南京虫(なんきんむし)を飼っていたみたいなもんですから、時折、着ている服からシラミをつまみ出してはプチンプチンと潰(つぶ)すのが楽しみでもありました。そのノミ、シラミ、南京虫の連中が、DDTという真っ白な粉をふりかけた途端にたちまち駆除されていなくなってしまうんですよ。(中略)アメリカって国はすごいなぁ、と頭をガーンと殴られたようにショックだったのを覚えています」と話している。
 昭和二十二年六月六日付では、六月一日現在、浜松保健所管内の伝染病患者数は、疫痢一名・赤痢二名・腸チフス八名・パラチフス一名・発疹チフス一名であり、五月中には十七名の罹患、一月以降では八十七名を数えている。二十一年・二十二年の各種伝染病の猖獗が背景にあると思われるが、静岡県では浜松市松城町に県伝染病細菌検査所(建坪百六十坪)の新設を決め、九月の県議会に予算二百二十一万円の追加予算を提出するという報道がある(昭和二十三年五月二十二日付、翌二十四年六月二十四日に浜松保健所分室細菌検査所として浜松市鴨江町元鴨江病院跡に新築落成した)。そして二十四年四月二十八日付では、例年四月に入ると十名内外の伝染病罹患者が出るのに、本年は一名も発生していない、明治四十四年の浜松市立伝染病院の開院以来の初めてのことという記事が出ている。さらに五月には流行性脳炎の発生を防ぐためにボーフラ退治を開始するという。しかしながら右のことは一時期のことであって、六月と八月には各種の伝染病罹患者があり、六月十四日付では伝染病僅少の標題も見えるが、八月二日には浜松地方では疫痢三十名(死者十八名)、赤痢二十八名という報道である。
 伝染病予防法によって市町村は隔離病舎を設置しなければならないのであるが、この維持管理が市町村の財政を圧迫し、伝染病の蔓延がさらに悪化させるという悪循環を生じさせている。そこで昭和二十六年六月十九日付記事(「西部に統合伝染病病院」建設案)の以後、近隣六町村(入野村・可美村・神久呂村・篠原村・舞阪町・雄踏町)による組合立の伝染病院の建設案があったが完成をみなかった。同二十六年十二月十七日付記事では浜松市立伝染病院の改造二カ年計画が浮上している。このような建設案の一結果として湖東伝染病院(篠原村)があった(昭和二十九年七月十九日付)。