敗戦後の膨大な生活困窮者の出現という事態をいかなる政策を実施することで乗り切るのか、大きな政治課題であったが、昭和二十一年二月二十七日付で発せられたGHQの「公的扶助に関する覚書」(四原則)によって、同年九月に生活保護法が成立し、十月に施行された(旧法)。その後、日本国憲法第二十五条にいう生存権の理念(生活困窮者は権利として保護を受け得るものであること)を記した現行法の生活保護法が、昭和二十五年五月四日に公布され即日施行された。これにより失業者、戦争未亡人、母子世帯に相当する人々が救護されることになった。
右の旧法から現行法へ移行する過程で、『静岡新聞』には様々な記事が現れる。昭和二十四年五月二十四日付で授産・生活相談を主旨とする母子会館建築があり、その五月二十九日付で母子寮・同胞寮の未亡人など四百人が輸出用の鈴蘭造花でドル稼ぎをしている報道、十一月十四日付で馬込・海老塚の授産所では輸出用葛布製作用のための「糸カセを作る有望な仕事」を、市社会課が斡旋したことを報じている。同二十五年三月三十一日付記事では、市当局が四月一日に母子相談所(九カ所)を開設すると報じた。市内六百余の母子世帯のために生活保護、児童福祉、結婚や内職の相談を受けるという。その町名と任命された人々は次の通りである(下池川町・中村春子、成子町・木全かづ、和合町・住岡ひろ、白羽町・木宮ひさ、浅田町・斉木えい、砂山町・関口ちよ、八幡町・伊藤善哉、菅原町・川島きく、瓜内町・斎藤すみ)。