【人工栄養 戦時下農村の栄養状況】
戦後の食糧不足で母乳が十分ではない乳児が増加しており、乳児の体位低下傾向が顕著になっていることが『静岡新聞』昭和二十二年(一九四七)七月二十五日付記事で報じられている。「浜松市の人工栄養児を見ると五月中は千二百七十六名であつたものが六月になると千三百六十五名、八十九名の増加、本月に入つてから十五日までに六十九名の申請があり月末には千四百名を突破すると予想されている、この傾向は都市部のみでなく、浜名、引佐両郡も同様」と断じているように深刻な事態であった。
昭和二十三年に刊行された『都田村郷土実態調査』に収録された「保健衛生」(『新編史料編五』 八医療 史料8「終戦直後の保健衛生」)の中の「村民のかゝる主な病気」には、病名(男・女・合計)別の統計表が示されている。ただし、この数値は「死因別統計」(昭和十五年~同二十年、男女別統計表)の合計と合致しているので、右の期間の数値であろう。
老衰(二五・四三・六八)、脳溢血(二九・一九・四八)、急性肺炎(一七・一三・三〇)、発育不全(一四・一三・二七)、赤痢・疫痢(一四・一二・二六)、肺結核(九・九・一八)
右にみる通り発育不全の子どもの死者が赤痢・疫痢で死亡するのとほぼ同じであるという悲惨な状況を示している。さらに発育不全の死者数の子細を死因別統計によって(男・女・計)を見ると、昭和十五年(三・一・四)、十六年(六・三・九)、十七年(〇・二・二)、十八年(二・一・三)、十九年(三・四・七)、二十年(〇・二・二)であり、その合計が先に見た(一四・一三・二七)に相当する。
戦時下農村の栄養状況の一端が推察されよう。その上、死因別統計には昭和十五年から同二十年までの「死産」の各年の死者数が記載されている。なんと合計二十八名。戦時中の多産多死の実態を示しているであろう。