[学校給食]

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【学校給食】
 戦前には世界大恐慌の時、弁当を持参できない児童があって、その救済を図り、学校給食を実施した。戦時中には栄養改善と体位向上を目的としてなされたこともあった。戦後は食糧難の対応としてララの援助を受けて給食を再開した。
 その後の学校給食の沿革については、『静岡新聞』の記事を拾ってみると、同二十九年に学校給食法が成立し、その前後には浜松市内の小学校・中学校においては様々な問題点が明らかになっている。
 昭和二十二年一月十日・十五日付記事では、浜松市では十八校(一万七千五百四十一名)が対象になり、連合軍が接収した旧陸軍海軍用物資が放出されたもので、静岡県では県が保管していた魚缶詰が給食にまわされたという。浜松市では週二回実施され、副食のみであった。
 昭和二十八年六月二十九日付では市内二十一の小学校と七の中学校が給食を実施しているが、その実態調査によると、小学校の場合は設備は悪いが給食状況は良好、中学校では施設は良いが給食状況は悪い、という結果が出た。小学校の施設は不衛生かつ給食材料の保管場所がない、と指摘されている。これ以後、その施設改善と拡充がPTAにのしかかる大問題となる。教育行政費の不十分さを保護者が負担するという構図が続くことになる。