[浜松病院医会の発足]

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【太田用成】
 先駆者の苦悩を刻んだ遠江医学会の前史として、浜松病院医会、西遠医会の足跡を素描する。それは医師会病院設立、浜松医科大学の建設を必然化させた動向を探るためである。
 明治九年(一八七六)八月二十一日、浜松県は静岡県に合併されたが、民政にかかわる医療行政においては、浜松病院とその付属医学校が果たした役割は否定できなかった。明治十年一月六日、太田用成病院長等は浜松病院医会設立の建白書を静岡県令大迫貞清へ提出し、その三月に許可があり、その際の「指令」である浜松病院医会仮規則(全四款、全二十二カ条)を四月に提出した。その四月十五日に開催された医会では医域区分・医制・経費の三項目について議決し、明治十年四月十五日に最初の浜松病院医会が発足した。五月七日に太田用成等は「決議スル事項ヲ日誌ニ印刷シ社中ニ分与セリ、(中略)決議スル所ノ事ハ総テ之ヲ報道シ、諸事相共ニ協力シテ人民ノ健康ヲ保持センコトヲ謀ラントス」と広報周知を明言した。六月二十四日付の「浜松病院医会誌」には医域ごとの医学生を募集し、学費はその医域負担とし、卒業後にその地に赴任させること、病院原資の募積と維持方法、非医巫覡(ふげき)の投薬施療禁止、等の議決が掲載されている(『新編史料編二』 九医療参照)。