[西遠医会から遠江医学会へ]

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【遠江医学会】
 明治十四年二月二十日、西遠医会が発足し、会長には浜松病院院長の福嶋豊策を選び、春秋二回の研究会、各回の演者は四名、会費は毎回二十銭と決め、開催することになった。その時の福嶋院長は頭脳と胸部の解剖を提案している。明治期の医療行政の最大の課題は伝染病対策である。内務省令達では明治九年の天然痘、同十二年のコレラ対策に象徴される。内田正(名古屋鎮台軍医)は郷里浜松の住民に向けた啓蒙書を発刊し、明治十六年九月三十日には玄忠寺で遠江私立衛生会(初代会長岡部譲・神官)を結成した。コレラ対策をはじめ伝染病撲滅運動に果たした役割は大きい。なお、静岡県・浜松県両県合併後の静岡県立浜松医学校は県費削減を理由に、明治十三年に廃校となった。浜松病院は明治十六年二月、敷知・長上・浜名三郡に引き継がれ、同二十四年に維持困難を理由に廃止されている(『新編史料編二』 九医療参照)。
 明治三十三年になると、浜松の開業医たちは浜松同志会という研究団体を結成した。これが後に浜松医学会、さらに明治三十七年に遠江医学会と改称され、現在の遠江医学会に至っている。
 現在の遠江医学会は医師会を主体にして、静岡県西部地区の全医療機関(浜松医科大学・総合病院・開業医等)が加盟しているものである(君野徹三「遠江医学会会誌復刻版について」)。しかも重要な点は、昭和二十五年六月の全国医師会定款に基づいて、遠江医師会は静岡県西部医学会の性格も併せ持っていることが強調されている(『浜松市医師会史』所収、君野徹三執筆「遠江医学会」)。この原型には明治前半期において浜松病院、医会、西遠医会、遠江私立衛生会などを結成し、医療行政、自己研鑽、啓蒙活動、民衆教化のために、全医生の把握を図り、医域を設定した先学たちの歴史があろう。