[看護婦養成所の発足]

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【馬淵一貫 浜松博愛看護婦学校 『日本医籍録』 馬淵貞司 浜松市医師会附属准看護婦養成所 馬淵敬而 遠州病院付属乙種看護婦養成所 聖隷准看護婦養成所】
 第一次世界大戦を契機に女子の職業的自覚と経済的独立を目指す職業教育の施設として、名残町の開業医馬淵一貫、貞司父子によって名残町に浜松博愛看護婦学校が設立された。大正十四年十二月二十六日付で設立認可があり、翌十五年一月、財団法人化を図り、寄付金を募っている。この趣意書は『新編史料編三』の八医療の項で史料と解説を掲載している。なお同書には内田みつの産婦人科医院での産婆(後に助産婦)養成という史料も収めている。このような医院各自が産婆学校を設立した例には、大正期の栩木盛太郎(元城町)、馬淵享三郎(田町)、昭和期の内田六郎(内田みつの養嗣子、田町)がある。
 昭和六年版・同十年版『日本医籍録』の馬淵貞司の記事中に、県立第一中学校・師範学校校医の肩書きのほかに、財団法人博愛看護学校長、「理事長(地官指定)」の記事がある。同校は昭和三年十月に「指定学校ノ特典ヲ付与」(史料17「馬淵貞司への弔辞」、『新編史料編四』所収)されており、地方長官指定の看護婦養成施設に与えられた権限、すなわち看護婦試験を受験せずに看護婦免状が下付される指定学校であった。医師会養成によらない県下でも早い公認の開設例であろう(土屋重朗『静岡県医療衛生史』)。なお、昭和十六年の浜松市内の各種学校一覧表(『浜松市史』三 第四章第五節)には同校は修業年限二年、職員数十一名、学級数二、生徒総数五十名と記されている。この財団法人浜松博愛看護婦学校の戦後の状況については、『浜松市医師会史』に次のように記述されている。「もともと浜松には、一貫堂でやっていた浜松博愛看護婦学校があり、医師会も之に若干の寄附を出して養成を援助し、ゆくゆくは医師会にゆずって貰う心組みであったが、上記の如く占領法規によって昭和二十六年三月廃校のやむなきに至り25年にわたる歴史を閉じたのである」と。
 『浜松市医師会史』には、財団法人浜松博愛看護婦学校が「現在の浜松市医師会看護高等専修学校に変遷する」との歴史的意義を記している(「コラム」欄、「馬淵貞司」)。というのも昭和二十九年四月、定員三十四名で開校した浜松市医師会附属准看護婦養成所が紺屋町の医師会館の建物を使って開校したからである。
 明治四十四年七月の市制施行以後、医師会事務所は時の会長宅や理事長宅を転々としていたという。戦後昭和二十二年、浜松市医師会に社団法人が認可された時の事務所登録は、海老塚町の加茂道好(医師会副会長)宅であった。翌二十三年には看護婦養成案と医師会館建設案の両案が臨時総会で討議されたが、医師会館建設案が先行することになった。紺屋町の市有地を借り隣地を購入して同二十四年六月、浜松市医師会館が落成した。『浜松市医師会史』(柳本冬彦執筆項目)では、購入した隣地が同五十四年四月まで他人名儀であり、医師会館が同五十八年十二月まで逸失登記されず博愛看護婦学校の名儀のままであったと記している。
 他方、医師会館建設と表裏一体であった看護婦養成案の乙種看護婦養成は占領法規に合格せず、頓挫した。昭和二十六年四月、医師会長加茂道好、副会長馬淵敬而の下で再度看護婦養成案が練られ、同二十九馬淵敬而年一月の医師会決議を経て浜松市医師会附属准看護婦養成所設置が決定された。副会長馬淵敬而は浜松博愛看護婦学校設立者の馬淵貞司(同十四年十一月二十二日死去)の子息という関係もあり、地縁血縁を前提にした右のような記事、「ゆくゆくは医師会にゆずって貰う心組み」が生まれたのかもしれない。
 なお、昭和二十六年三月には遠州病院付属看護婦養成所も閉所したが、翌二十七年四月には遠州病院付属乙種看護婦養成所として設立された。またこの年には聖隷准看護婦養成所も開校している。