[菅沼五十一の活動]

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【菅沼五十一 『文芸解放』 『中部文芸』】
 戦後の浜松において、文学と文化の各方面で幅広く活躍し、常にリーダー的存在であった菅沼五十一の生まれ故郷は小笠郡佐束村高瀬(今の掛川市高瀬)である。平成二年、浜松文芸館で開かれた詩人三人展(後藤一夫・小池鈴江・菅沼五十一)に際して作成された年譜によれば、彼の文学活動は掛川中学校(現掛川西高校)在学中に始まる。三木露風の詩にひかれて詩を作り始め、学友と文芸誌を出した。二松学舎(現二松学舎大学)に進学、病気中退の後は故郷で文学活動を続け、中学の先輩窪川鶴次郎から激励を受けたこともある。後に、静岡県下における人民戦線事件として弾圧を受けた『東海文学』の同人でもあった。昭和十八年、第一詩集『春幾春』を刊行。この間、昭和十年に浜松に移住した。
 菅沼の戦後の活動の第一歩は、昭和二十一年八月に後藤一夫により創刊された詩誌『詩火』での活動であった。この雑誌についてはすでに詳述した。ここでは、同年に菅沼を中心に創刊された『文芸解放』について見ておきたい。第一号の発行は、昭和二十一年十一月十日。A5判、本文二十四頁、活版印刷で当時としては立派なものである。発行所は、浜松文化同志社、年六回発行とある。編集兼発行人は、松橋喜太郎となっているが、「後記」の筆者名と原稿の送り先は菅沼となっていて、実質的には彼が中心であったとみられる。執筆者として菅沼五十一(詩)、浦和淳(詩)、後藤一夫(小品)の名が見えるほか、梶浦正之(詩人)、柳田知常(国文学者、興誠中学校の教官を経て、金城女子専門学校の教授となり、後に金城学院大学学長を務める。)が評論を寄せている点が注目される。幅広い総合雑誌を目指したらしい。表紙絵とカットは山内泉。巻頭を飾る菅沼の詩「蛾」を引用しておく。
 
     蛾 
      菅 沼 五 十 一
もうさ夜ふけてしまつたのに 莨吸ふかげ
が りんりん と窓硝子の中に泳いでゐた
幾百かの可憐な蛾が窓に戀ひ  金米糖の花
のやうに そよいでゐた 嚴重な窓にとぢ
こめられて 無數の蛾が れ 動き 叫
び 或は輪になり 窓冷たき夜汽車のひび
きのなかに 誘蛾燈を戀ひつつ走つてゆく。
 
 雑誌は、浜松市立中央図書館に第一号のほか第二号(昭和二十二年一月)、第三号(同三月)が残されているが、その後については不明である。
 ところで、菅沼はこの『文芸解放』を出す前の昭和二十一年六月、文芸誌『中部文芸』を編集発行しているが、これは創刊号のみで廃刊となっている。理由は、掲載された松本長十郎の「時局雑想」という一文が、天皇制反対、マッカーサーの改革は不十分などと主張していて、GHQの検閲を受け編集者の菅沼が検挙されたためであった。これは、浜松で戦後に起きた筆禍事件として、記憶にとどめられてよい事実である。雑誌『文芸解放』は、この『中部文芸』に代わる雑誌として菅沼らによって発行されたもので、彼らのしたたかな姿勢が見て取れる。