[平山喜好と『浜工文学』]

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【『浜工文芸』 『浜工文学』 平山喜好 「独白記―戦後回想ノート」】
 国鉄浜松工場クラブ文芸部の機関誌『浜工文学』(第五号までは『浜工文芸』)が創刊されたのは、昭和二十三年四月のことである。
 戦後、国鉄に限らず全国各地の職場で文芸サークル誌が数多く発行されたが、そのほとんどは十年足らずの間に消滅してしまっている。その中で『浜工文学』は、約三十一年間にわたって発行し続けられ、文芸サークル誌としては最も充実した雑誌の一つとして、国鉄内外から高い評価を受けた。当誌がこのような充実した稀有(けう)の実績を残し得たのは、ひとえに、中心となって活動した平山喜好の力によるものであった。この『浜工文学』の発行継続の業績のほか、『労苑』、『浜松市民文芸』(共に第三章 第九節 第一項参照)の発行に大きく寄与するなど、戦後の浜松の文学活動の流れの中で平山の果たした役割は極めて大きなものがあった。平山の職業人としての人間像や文学的経歴、また戦後の浜松市において文学と文化の面で彼の残した業績については、自身の記した「独白記―戦後回想ノート」Ⅰ~Ⅲ(『浜工文学』第四十八号~第五十号)に詳しい。この文章(第四十八号)の中で、平山は、極度に混乱した当時の社会的・文化的状況を詳述した上で、国鉄の職場内に文学運動の芽生えていった様子を次のように記している。
 そのような時代を背景にして、盲目的ではあるにしても、当時お題目のように唱えられた「民主国家」とか「文化国家」をめざして、人びとは暗中模索した。戦時中は戦争を肯定し賛美しないかぎり非国民扱いされた文学活動が陽の目を見るようになった。永い間自由を奪われ、人間性を無視されてきた抑圧への反動として、全国的に文学運動が燃え上った。
 国鉄の職場においてもその例に漏れず、各地においてガリ版、仙花紙の文集が発行され、戦争によって否定されてきた人間性の回復のために、その怒りを爆発させた。
 同記によれば、浜松工場における戦後の文学活動は、冬青俳句会の発足(昭和二十二年一月)という俳句活動によって始まった。この会はガリ版刷りによる月刊の句誌『冬青』を発行し、十数名による定例句会を開いていた。やがて工場内にクラブ組織が作られ(昭和二十二年八月)、その文化部門の中に文芸部が誕生、昭和二十三年四月に機関誌『浜工文芸』(第六号から『浜工文学』と改題)が創刊された。平山は、昭和二十五年一月から文芸部長となり、第二号から編集を担当する。以後、彼の献身的な営為は昭和五十五年三月の終刊号(第五十号)発行まで、驚異的な持続力をもって続けられることとなる。同誌は第六号巻末の「浜工文学会規約」によれば年二回の発行を目指していたようであり、また総合的な文芸誌ではあるが、小説集や合同詩集として編集発行されたこともあった。
 平山個人の文学活動については、第三章 第九節 第一項において詳述する。