[塩谷一夫と『遠州展望』]

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【塩谷一夫 『遠州展望』 『静岡展望』】
 塩谷一夫が、磐田郡袋井町に地方建設研究所を設立し、雑誌『遠州展望』を創刊したのは昭和二十二年七月十日のことである。時に、塩谷は弱冠二十七歳(前年四月、戦後初の衆議院議員総選挙に立候補し落選している)。創刊号には、「地方建設研究会開設」の見出しで会員募集の広告が載せられており、「趣旨」のところに次のようにある。
 新日本文化国家の建設並に敗戦日本の産業経済の再建の為めには其の基盤となるべき地方の文化水準の向上並に産業経済の建設を図るより外に無いと思います。

図2-58 『遠州展望』創刊号

 この趣旨に基づき、この会には文化部と産業経済部を置き、雑誌は文化部の事業として発行された。総合雑誌として地方文化の向上を図ることが主な目的であったと思われる。同誌は袋井で発行されたが、浜松の記事も多かった。浜松地方からの寄稿者として、後藤一夫(三・八号)、飯尾哲爾(五号)、御手洗清(五号)、菅沼五十一(六号)、川上嘉市(六・九・十二号)、中谷福男(九号)などの名前が見える。また、魅力ある雑誌作りを目指し、苦心した跡が幾つか見受けられるが、その一つとして中央の有名人の原稿も掲載されている。今日出海(二号)、小原国芳(四号)、村松梢風(六号)、寺崎太郎(十一号)、辰野隆(十三号)、武者小路実篤(十四号、談話筆記)などである。
 同誌は、その後第三巻第十六号(昭和二十四年一月号)から、誌名を『静岡展望』に改称する。巻頭に「遠州展望から静岡展望へ」という一文が掲げられていて、その一節に次のようにある。
 
 さる二十二年、さゝやかながらも郷土に起つて、苦しい中をたゞ一筋に、平明な基礎から作り上げたいと、同志相寄つて囲み育てた「遠州展望」も、この新しい、何かな期待に満てる年を期して、従来の兎角の偏狭と、陥入り易い独善をかなぐり捨てゝ、こゝに「静岡展望」として新しい出発をすることになりました。

図2-59 『静岡展望』創刊号

 しかし、同誌は昭和二十五年五月号をもって廃刊となった。その後、塩谷は昭和二十六年、静岡県秘書課長に就任し、斎藤寿夫知事の下で県政に参画することとなる。以後、初代静岡県民会館長、企画調整部長を歴任し、昭和四十二年には衆議院議員に初当選、中央での政治活動を展開する。