[文化センターとしての図書館]

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【浜松市立図書館 栗原勝 東海一の図書館 坂本幸次郎 ユネスコ協力会 図書寄贈運動 浜松読書文化協力会 山根七郎治 読書会 読書感想文コンクール 吉良任市 稲勝正弘 巡回文庫 自動車文庫 移動文化館】
 戦後の浜松において、一つの文化センター的機能を持ち、極めて重要な役割を担っていたのが、浜松市立図書館であった。これが現在の位置、松城町十六番地(浜松城の出丸の跡)に建てられ開館したのは、昭和二十五年十一月二十日のことである。これより先、紺屋町(旧浜松医学校跡地)にあった元の市立図書館は、昭和二十年六月十八日の浜松大空襲により、建物三棟百四十坪を蔵書三万五千冊とともに全焼し、貴重な郷土史料を焼失してしまっていた。新しい図書館は木造二階建て、一部鉄筋、総建坪千四百五十七平方メートル。設計には当時の建築課の技師栗原勝(後の浜松市長)が当たった。栗原は、谷口吉郎門下で、藤村記念堂の設計にも協力したことで知られる。現在ではもう見ることの出来ないこの建物の概要を『浜松市立図書館小史』(昭和四十年発行)は次のように説明している。
 この図書館の玄関は四方にあり、全く開放された自由な出入口と、一般図書の他フィルム・ライブラリー、レコード・ライブラリー、郷土博物館、美術館的な機能を充足し、子供の部屋にはファンタジックな壁画(山内泉氏)が描かれ、子供達を楽しい夢に誘い、婦人閲覧室には乳児のベッドを備え、目録室には大谷石で出来た古器の陳列棚があり、庭園にはプールを前に少女の立像「花神」(水野欣三郎氏)が立ち、芝生の上では寝ころんで読書する雰囲気がかもし出されている。
 当時は、国内の大部分の図書館が焼失していてモデルとすべきものもなく、図書館法も制定されていないころのことで、多くの困難を伴ったが市内の文化人たちの意見をも取り入れて、苦心の末に設計されたものであった。完成したこの建物への評価は高く、東海一と言われ、当時の図書館設計のモデルとして建築雑誌にも紹介された。栗原はこの後、東小学校や曳馬中学校の設計も手掛けた。館長には、これまで浜松市立高等学校の校長を務めていた坂本幸次郎が任命された。

図2-61 浜松市立図書館

 開館の前、市の教育課に保管されていた蔵書はわずかに二千百三十五冊。図書館として機能するためには、何よりもまず図書の充実が図られなければならなかった。ここに、市民の間でユネスコ協力会や婦人連盟などを中心とする献身的な図書寄贈運動が展開され、開館までに図書三千三百八十一冊、雑誌千六十八冊、現金十九万六千八百七十六円が集められた。現金は辞典類や岩波文庫の購入費に充てられた。開館当時は蔵書が少なかったことにより、館外への貸し出しはなく館内閲覧のみであった。利用者は、目録によって閲覧したい本を探し、閲覧票に必要事項を書いて窓口に出し、係が書庫に行って書物を探し利用者に手渡すという現在では考えられないような面倒な手続きが必要であった。当時の利用状況について、定期監査の結果報告(昭和二十六年八月)では、学生に比べて一般閲覧者が少ないこと、婦人閲覧者が概して少ないこと、利用者が館の周辺地区に限られる傾向にあること、新聞・雑誌の利用度が非常に高いこと、総じて利用者が増加しつつあることなどが記されている。
 図書館の協力後援団体として、浜松読書文化協力会が設立されたのは、昭和二十六年八月二十二日のことである。初代会長には山根七郎治(第五項参照)が就任した。山根は、弁護士の仕事の傍ら書画や文筆活動など多方面に才能を発揮し、浜松きっての文化人であった。当時、この会には「読書文化協力会は図書館のPTAのようなもの」との認識があり、図書購入費をはじめ様々な経費を負担し、種々の文化活動に協力した。この会の存在なくしては初期の図書館は機能しなかったとも言い得る。このころ図書館が行った催しとしては、レコードコンサート、文化映画の会、各種展覧会、講演会などがあり、またここを会場として美術展も開かれた。このうち、講演会に招かれた講師の顔触れを見ると、郷土の文化人のほか、和歌森太郎、木下恵介、菅沼貞三、阿部真之助、中野好夫、臼井吉見、浜田広介、杉浦民平など中央の一流の人々であることに驚かされる。
 このほか、図書館を会場として様々な読書会が開かれ、図書館主催の読書感想文コンクールも行われた。読書会については、当時の「施設貸与一覧表」を見ると、昭和三十年前後、図書館を会場として様々な読書会が開かれているのが分かる(主催者として個人名のほか静大工学部の名も見える)。それらとは別に、図書館主催の読書会があり、読書指導講演会といった会も開かれている。読書感想文コンクールについては、その第一回目は、昭和三十二年の秋で、読書週間行事の一環として一般市民を対象に行われた。その詳細が『浜松図書館報』第四号(昭和三十三年一月)に掲載されている。応募総数十八編、優秀賞には吉良任市の「異邦人管見」が選ばれている(吉良は後年、同人誌『ゴム』を主宰、詩人・小説家として活躍する)。審査員は、社会教育委員長の内田六郎のほか、勝見次郎(ペンネーム・藤枝静男)、中村良七郎、河合茂、斎藤和雄の四名であった。コンクールは以後毎年開かれ、児童生徒読書感想文コンクールへとつながってゆく。これらの各種文化行事の充実・発展については、昭和三十二年十一月に館長に就任した稲勝正弘(社会教育課長兼任)の力が大きかった。彼は幅広い教養を備えた文化人で、市立図書館にはうってつけの人物であった。
 巡回文庫が誕生するのは昭和二十七年七月。これは、合併により市域が拡大し、遠方地域へのサービスが必要となったためである。地区の団体に、五十冊を一カ月間貸し出すというもので好評であった。昭和三十二年には自動車文庫が登場する。これは、社会教育課によって運営され、読書会の育成や視聴覚資料の貸し出し、巡回映画会等も行ったので移動文化館と呼ばれた。昭和三十二年度には、市内三十九カ所に配本所が置かれ、閲覧冊数は、一万四千二百三冊に上り、利用度が高かった。『浜松市移動文化館だより』(十六号から『自動車文庫だより』)が発行されるようになったのは、昭和三十三年六月からのことである。

図2-62 自動車文庫

 こうして、図書館は年とともに充実を見せていったが、昭和三十年代後半になると、市民会館・児童会館等が完成し、それぞれ自主活動を開催するようになると、図書館ではこれらと重複する行事は行われなくなった。図書館は大きな機構改革を必要とする時代を迎えることとなる。