『浜松民報』 『遠州新聞』

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【松井賢一 内山恒雄】
 敗戦後、言論の自由、報道の自由が認められるようになると、浜松市内には幾つかの新聞社が乱立した。そのほとんどは、間もなく廃刊となったが、『浜松民報』は、松井賢一社長の強力なリーダーシップの下で順調に部数を伸ばした。創刊は昭和二十一年八月一日。敗戦のほぼ一年後である。昭和二十年代の中ごろになると、本社を元城町の大手通りに移転し、高速度輪転機を設置、東京総局や静岡支社のほか、遠州各地に通信部を作り、地方ニュースを大きく取り上げた。同二十六年には発行部数が二万三千部となった。昭和二十七年四月二十八日、講和条約が発効し日本が独立を達成した際には、社長松井賢一が「講和独立を迎えて 争いの胤を抜け」との題で社説を執筆している。この後、同紙は昭和三十年一月から『遠州新聞』と紙名を変更し、エリアを遠州全域に拡大したが、昭和三十三年から再び紙名を『浜松民報』とし、ページ数も減らして浜松に密着した新聞とした。しかし、『静岡新聞』や『中日新聞』の攻勢に対抗することは出来ず、昭和四十二年、ついに廃刊となった。
 なお、この『浜松民報』においては、同社の記者内山恒雄の担当した文化欄の充実していることが注目される。図書館の催しや、各種文化組織の動向を伝え、また、美術・文芸・音楽・演劇・映画など幅広い分野における情報を提供している。特に映画評は署名記事で、当時評判の高かった「ヨーク軍曹」・「三等重役」・「第三の男」など東西の作品が取り上げられている。時に辛口を交えたその批評は要点をついていて読みごたえがある。筆者名は「Tune」となっているが、言うまでもなく内山の筆名である。