『浜松文化新聞』の創刊は、昭和二十四年九月十五日のことである。B4判、表と裏の二頁(後にA4判、四頁)。「発刊の辞」に次のようにある。
文化とは自然に対する語であると謂われる、即ち、自然を材として、人間が本来所有する理想を実現せんとする過程の総称であつて、この意味に於てこの過程の所産たる遠州地方の芸術、文学、宗教、科学、法律、経済等はすべてわれ等の批評の対象たるを免れることは出来ない。われ等は民主主義的新聞の使命に従つて毎号堂々の論陣を張つて諸子にまみえんとしている。御期待を乞ふ。
発行人兼編集人は遠藤明、発行所は浜松文化新聞社(板屋町)とある。同紙は、浜松の文化人の一人であった竹山亥三美と関係が深いと見られるが、発行人兼編集人として彼の名が見えるのは第五号からである。創刊号の主な記事は二つで、一つは、この年の二月に発見され第一次の発掘がなされた伊場遺跡に関するもので、土器の破片を見つけた中学生の報告をきっかけとして、遺跡の存在を発見した浜松市立西部中学校の高柳智教諭の文章。もう一つは浜松市の図書館の建設問題を扱っていて、見出しに「難行は続く三ヶ年―敷地問題でまた坐礁?」とある。後者については、第三号で「図書館の建設について」と題する座談会が一頁分すべてを使って特集記事として組まれており、図書館建設問題が、当時の浜松市における重要な課題であったことがうかがわれる。この第三号の社説とも言うべき「時論」に「経済都市浜松が、またその反面堂々と文化都市浜松と呼ばれるに相応しい内容を持つ日の一日も早からんことを希うものである。」とある通り、同紙は浜松の文化振興を熱烈に志向する新聞であった。創刊号には、月刊で毎月十五日発行とあり、第三号までは順調であったようであるが、浜松市立中央図書館に残されている第六号の発行は昭和二十五年八月五日となっていて、第四号以降は徐々に発行が遅れるようになり、程なく消えていったとみられる。
このほか、この時期に浜松地方において発行されていた三紙、『繊維通信』、『浜松民友新聞』、『浜松夕刊』について触れておきたい。
図2-63 『浜松文化新聞』創刊号