山根七郎治

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【仏頂子 淡彩画】
 山根七郎治の浜松における書画と文筆の本格的な活動は、敗戦後間もない昭和二十三年、相生垣瓜人、山内泉と三人で美術団体「三行舎」を結成したときに始まる。山根は明治二十七年に東京に生まれたが、父の浜松郵便局長勤務に伴い浜松に移住、県立浜松中学校(現浜松北高校)を卒業、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業後、東京で実業界に入っていたが(この間に兵役を経験)、大正十二年の関東大震災遭遇を機に浜松に帰り、山根法律事務所を開設し、主として民事事件担当の弁護士として活躍していた。
 山根が、仏頂子と号して絵筆に親しんだのはかなり早く、大正の初期、第一高等学校を卒業したころであった。三行舎結成後は、昭和二十三年に第一回三行舎展を神明町の菓子屋「月ヶ瀬」で開催、以後、年に一度の開催となり、彼は淡彩画による洗練された画風と紀行文とで市民の人気を博した。代表作として「あわをどり」、「天竜断想」、「西浦田楽」などがある。このうち「あわをどり」には、踊る河童(かっぱ)がユーモラスに描かれている。山根は、河童をこよなく愛していた。このほか山根は、黄檗宗関係の書籍の収集に努め、また辰野隆、古今亭志ん生、徳川夢声等との交友関係があり、映画監督の木下恵介とも親しかった。その関係で、木下恵介監督門下の川頭義郎監督の映画「涙」(昭和三十一年)に寺の住職役として出演したのをはじめ、木下監督の「喜びも悲しみも幾年月」(同三十二年)に教会の牧師役で、「笛吹川」(同三十五年)では快川和尚役で映画にも出演した。この間に、浜松市選挙管理委員会委員長(同二十七年)、浜松商工会議所相談役(同二十九年)、浜松商工会議所浜松クラブ理事長(同三十年)、静岡県教育委員会委員長(同三十一年~三十五年九月)などの多くの公職をも歴任し、昭和四十三年に七十四歳で亡くなるまで、文字通り浜松を代表する文化人の一人であった。

図2-65 山根七郎治の表紙絵

 相生垣瓜人、山内泉、山根七郎治の三人による三行舎における瓜人の活動は、彼のいわば余技とも言える俳画によるものであった。余技とはいえ、作品はその俳句作品と同じく和漢にわたる深い教養に基づいた独特の味わいがあり、広く市民の人気を博していた。芸術家としての瓜人の活動の中心をなすものは、言うまでもなく俳句であったが、それについては第三章において詳述する。