ざざんざ織

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【平松實 中村精 『颯々紬』 あかね屋 平松哲司 「うろ覚え私記」】
 平松のざざんざ織創案は、昭和初期の柳宗悦らを中心とする民芸運動と深いかかわりがある。その仲介的な役割を担ったのは、平松の実弟で、浜松の文化向上に大きく貢献した中村精である。その間のいきさつについては『浜松市史』三に詳しい。柳が中村のもとを訪れたのは昭和二年一月。その時の座談会がきっかけとなり、浜松の地に民芸運動が芽生え、その影響のもとにざざんざ織は生まれた。この織物がいかなるものであるかについては、平松自身執筆の『颯々紬』(『新編史料編四』 九文学 史料28参照)に、始めた動機、名称の由来、糸、染色方法、工法、種類等に分けて詳述されている。各種の展覧会に出品し、受賞を重ねた後に店を出すに至る。平松の中島町の実家は、動力織機を入れた織布業で、工場内にざざんざ織の工房を置いていたが、新たに紺屋町に工房を作り、草木染手織絹の店あかね屋を出したのは昭和八年一月のことである。この店の様子については、平松哲司編の『颯々織』(昭和五十八年)に掲載の、永井治雄の随筆「うろ覚え私記」に克明に生き生きと描かれている。ここで生まれた製品は、六代目尾上菊五郎、川端康成ら鎌倉文士、式場隆三郎、白洲次郎ら多くの著名人に愛好されたという。浜松在住の作家・藤枝静男もファンの一人であった。

図2-67 ざざんざ織と平松實

 しかし、この紺屋町の工房も、太平洋戦争の戦火により焼かれてしまう。平松は中島町の家を改造して工房とし、敗戦を迎える。戦後、昭和三十年までざざんざ織を続け、その後、技術は子息の哲司に引き継がれ、平松自身は浜松の文化のリーダーの一人として多方面において活躍することとなる。市芸術祭市展運営委員長、労働美術展審査委員長など多くの委員を歴任。このほか勲五等瑞宝章、紺綬褒章を受章。浜松市勢功労者、県知事表彰受賞者。県無形文化財の指定を受けたのは昭和五十三年のことであった。同五十九年三月十三日死去。享年八十六歳。