【社交ダンス ダンスホール スクエアダンス フォークダンス】
戦後、アメリカから自由主義と男女同権の思想が移入されたことによりもたらされた現象の一つが、男女が組んで踊る社交ダンスの流行である。当時の『静岡新聞』を見ると、「怪げな〝自由〟の足取り」の見出しの下に、ダンスホール見学の記事(昭和二十二年九月十五日付)が出ている。これによると浜松市内には、浜松駅近くと田町に二カ所のダンスホールと、個人教授十カ所があった。客は女性が七割を占め、その大部分は二十歳前後の若い女性であると報じている。流行に伴い、ダンスの資金を得るために引き起こされた事件等のあったことも伝えている。
一方、昭和二十年代の終わりごろから、社交ダンスとは別の流行が見られる。フォークダンスの流行である。初めは、八人で踊るスクエアダンス(アメリカの農村の素朴な民踊)が入ってきたようであるが、次第に大勢の男女が一斉に踊るフォークダンスの流行となった。昭和三十年代初期の新聞に、フォークダンスの講習会の案内や報告の記事が目に付く。当時の『静岡新聞』(昭和三十年十一月二十四日付)は、静大工学部雨天体操場で開かれた、浜松フォークダンスクラブによる講習会の様子を次のように伝えている。
この日会場に集まつた青年婦人会の人々や男女学生約百名は長時間の講習にも全然疲れをみせず、音楽にあわせ、男女仲良く腕を組合つて楽しくしかも健康的に会場せましとばかり踊りまくつた。同クラブ幹部は陰気でたい廃的な男女交際を打破し、このように愉快で開放的なダンスを若い人達の娯楽とするのが目的だと明るく語つていた。
フォークダンスの流行は、朝鮮戦争の後、高度経済成長前の日本社会の健康的で前向きな一面を示す象徴的な現象であったと言えるかも知れない。