戦後の新しい文化の現象の一つとして、民衆の間への音楽の浸透ということがある。初めは、町や村の若者たちによる、地域の催しを盛り上げる大衆楽団的なものであったが、やがてそれが高校におけるタンゴバンドやハワイアンバンドなどの軽音楽グループの発生へとつながっていく。そのような流れの中で、一時的ではあったにせよ非常な流行を見せたのがハーモニカである。楽器会社である日本楽器の社内には、すでに大正時代にハーモニカバンドがあったというが、戦後は、昭和二十三年十一月に、ヤマハハーモニカ・バンドが結成され活動を始めている。このころから浜松地方をはじめ全国の楽器メーカーがハーモニカの製造に乗り出している。浜松駅ホームに、ハーモニカ販売のハーモニカ娘が登場したのは昭和二十四年のことである。一方、文部省による「学習指導要領」の改訂(昭和二十六年と同三十三年)があり、音楽では戦前の唱歌中心から器楽学習を含めた指導へと内容が大きく改められた。こうしてハーモニカは、教育楽器として一時的にブームとなり、各小中学校にハーモニカバンドが生まれる。このころの新聞を見ると、全日本学生ハーモニカ連盟主催の、ハーモニカ大会の記事が幾つか載せられているが、その一つに、「盲学生の頭上に初の栄冠 ハーモニカ〝日本一〟」なる見出しの記事がある(『静岡新聞』昭和二十七年十二月二日付)。これは、浜松盲学校の中学生が、全日本学生ハーモニカ連盟主催の東日本大会に出場し優勝したことを伝えるもので、「この優勝は全国初のものであるばかりでなく、一般学生とともに参加したことも珍らしいことである」との解説が添えられている。なお、この快挙の陰には、メーカーの日本楽器製造株式会社や東海楽器、また浜松青年会議所の援助等があったようである。
図2-72 ハーモニカ娘