映画

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【小池継司 山本巴水 後藤太郎 三好新一 服部治助 文化劇場 浜松松竹劇場 浜松シロバラ劇場 南部劇場 東洋劇場 松竹座 伊賀惣八 浜松セントラル劇場 浜活 浜松東宝劇場 洋画】
 戦後の文化の復興・発展の歴史の中で映画の果たした役割は極めて大きかった。本書の扱う戦後の約十四年間は、焼け跡の中に戦前からの大衆娯楽としての映画が復活し、映画界が最盛期を迎えるまでの期間と重なっている。
 この間の歴史については、『浜松 戦後映画史と映画看板の変遷』(井上富雄・浜松市立中央図書館編平成八年十二月一日発行)に詳しい。戦前浜松市内にあった映画館と劇場は、戦災によりすべて焼失していたが、戦後市内に映画館復活の動きが始まるのは極めて早かった。敗戦の年の十月、まだ市内に戦災による焼け跡がそのまま残り民心が荒(すさ)んでいたころ、こういう時期にこそ市民に娯楽を提供しようという人々がいた。小池継司(吾妻座)、山本巴水(ニュース館)、後藤太郎(大映)、三好新一(新歌舞伎)の四人で、彼らの提案に浜松興行界の服部治助が手を差し延べ、浜松興行組合直営としての映画館が完成したのは、昭和二十年十二月六日のことである。館名は文化劇場、場所は広小路の東側。やみ市の露店が並ぶ一画で粗末な建物だったが、戦後浜松の文化の先駆けとなったことは高く評価されてよい。この劇場は、浜松興行組合直営として誕生したが、同二十二年の改装を機に、劇場主服部治助、営業責任者小池継司らの運営となった。昭和二十一年一月一日、浜松松竹劇場が再建され開館。この年の正月、二つの映画館は立錐の余地の無いほどの混みようであった。同年二月、伊賀惣八らによってモール街の旧サゴー付近に浜松シロバラ劇場(七月に浜松大映劇場と改称)が完成する。さらに同年、南部劇場・東洋劇場・松竹座の三館が完成し合計六館となる。このうち東洋劇場は歌・芝居・浪曲・漫才などの実演で人気があった。
 伊賀惣八はその後、浜松セントラル劇場を設立し、人気のあった洋画を次々に上映。さらにもう一館を設立して、二館を第一セントラル劇場、第二セントラル劇場とし、洋画ファンの期待に応えた。また、文化劇場や東洋劇場も傘下に収め、これまで演劇、演芸中心の東洋劇場を洋画専門館として再出発させた。昭和二十八年には、浜活株式会社を創立し、浜松の映画王と呼ばれた。彼は福島県の出身で、松竹・日活・大映等の営業の仕事に携わり、戦時中に遠州地方に来て、戦後の混乱期に映画館経営者として成功を収めた。昭和三十年には、浜松市議会議員選挙に出馬し最高点で当選している。
 昭和二十二年の正月も、映画館はどこも大繁盛であった。この年二月十一日に、浜松東宝劇場が開館。このころから、主要映画館は新聞への別々の広告をやめて、「浜松映画街案内」として共同の広告掲載となった。この二十二年の時点で、浜松市内の映画館の数は十一館、劇場は一つ。多くがバラックか焼けたビルを改造したものであった。競争が激しくなったため、低俗な映画や演劇を上演するところも現れる『静岡新聞』には、「エロで苦肉の客寄せ戦術、赤字故に観客へ媚態 俗悪低劣な劇場映画館 良心的な興行を期待」といった見出しの下に、浜松の大衆娯楽界を痛烈に批判する記事も掲載されている。こうして一時期、映画館の中には経営的に行き詰まるところも現れたが、人々の映画への関心は衰えを見せることはなかった。人々の洋画への関心は高く、アメリカ映画の人気は絶大であった。アメリカ映画「月世界征服」が東洋劇場で公開されたのは昭和二十六年。原子力宇宙船で月に着陸するという空想映画で、市内の中学校では、劇場まで生徒を引率して鑑賞させた。こうして、一般大衆の関心は演劇から映画へと移り変わり、その人気はますます高まりを見せ、昭和三十年代前半の映画の黄金期へと続いてゆく。なお、昭和二十年代の初期は、アメリカを中心とする連合軍に占領されていたため、国内の至る所に英語があふれ、浜松でも劇場名は日本名のほか、東洋劇場がORIENTAL THEATRE(後にTOYO THEATRE)、第一セントラル劇場はFIRST CENTRAL THEATREなどと書かれていた。